やうとした。
『帰つたつて可《い》いじやアないか。乃公《おれ》は出るから』と言ひ放つて、何か思ひ着いたと見え、急速《いそ》いで二階に上《あが》つた。
火鉢には桜炭《さくらずみ》が埋《い》かつて、小さな鉄瓶《てつびん》からは湯気を吐いて居る。空気|洋燈《らんぷ》が煌々《くわう/\》と燿《かゞや》いて書棚の角々《かど/\》や、金文字入りの書《ほん》や、置時計や、水彩画の金縁《きんぶち》や、籐《とう》のソハに敷《しい》てある白狐《びやくこ》の銀毛《ぎんまう》などに反射して部屋は綺麗《きれい》で陽気である、銀之助はこれが好《すき》である。しかし今夜は此等《これら》の光景も彼を誘引《いういん》する力が少しもない。机の上に置いてある彼が不在中に来た封書や葉書《はがき》を手早く調べた。其中《そのうち》に一通|差出人《さしだしにん》の姓名の書いてない封書があつた。不審に思つて先《ま》づ封を切つて見ると驚くまいことか彼が今の妻と結婚しない以前に関係のあつた静《しづ》といふ女からの手紙である。
銀之助は静《しづ》と結婚する積《つも》りであつたけれど教育が無いとか身分が卑《いや》しいとかいふ非難が親族や朋友《ほういう》の間に起《おこ》り、且《か》つ其《その》純潔すら疑《うた》がはれたので遂《つひ》に何時《いつ》とはなしに銀之助の方から別れて了《しま》つたのであつた。別れて今の妻《さい》と結婚して後《のち》は静《しづ》の成行《なりゆき》に就《つ》き銀之助は全く知らなかつた。
ところが五年目に突然|此《この》手紙、何事かと驚いて読み下《くだ》すと其《その》意味は――お別れしてから種々の運命《め》に遇《あつ》た末《すゑ》今は或《ある》男と夫婦同様になつて居る、然《しか》るに貴様《あなたさま》との関係と同じく矢張《やはり》男の家で結婚を許さない、その為《た》め男は遂《つひ》に家出して今は愛宕町《あたごちやう》何丁目何番地|小川方《をがはかた》に二人して日蔭者《ひかげもの》の生活《くらし》をして居る。窮迫《きゆうはく》に窮迫《きゆうはく》を重ね、ちび/\した借金も積《つも》りて今は何としても立行《たちゆ》かぬ様《さま》となつた。そこで如何《いか》なることがあつても貴様《あなたさま》にはと誓つて居たけれど其《その》誓《ちかひ》も捨て義理も忘れてお願ひ申すのである、何卒《どうか》二十円だけ用意して明晩《みやうばん》来て呉《く》れまいか――といふのである。
明晩とは今夜である銀之助はしみ/″\静《しづ》の不幸《ふしあはせ》を思つた。静《しづ》は男に愛着《おも》はれ又《ま》た男を愛着《おも》ふ女である。そして可憐《かれん》で正直で怜悧《れいり》な女であるが不思議と関係のない者からは卑《いや》しい人間のやうに思はれる女で実に何者にか詛《のろ》はれて居るのではないかと思つた。しかし銀之助には以前《もと》の恋の情《こゝろ》は少《すこし》もなかつた。
どうせ飛び出すのだ、何しろ訪ねて見ようと銀之助は先《ま》づ懐中《くわいちゆう》を改めると五円札が一枚と余《あと》は小銭《こせん》で五六十銭あるばかり。これでも仕方がない不足の分は先方《むかふ》の様子を見てからの事と直《す》ぐ下に降《お》りた。
『房《ふさ》、遅くなつたら閉《し》めても可《い》いよ。』
『アラ如何《どう》してもお出《で》になりますので御座《ござ》いますか。』と房《ふさ》はきよと/\して気が気でない。
『何《な》に心配しないでも可《い》いよ。奥様《おくさん》に急に用が出来たから出たつて言つてお呉《く》れ。』
外は星夜《ほしづくよ》で風の無い静かな晩である。左へ廻《まが》れば公園脇の電車道、銀之助は右に折れてお濠辺《ほりばた》の通行《ひとゞほり》のない方を選んだ。ふと気が着いて自家《じたく》から二三丁先の或家《あるいへ》の瓦斯燈《がすとう》で時計を見ると八時|過《すぎ》である。
外で冷《ひやゝ》かな空気に触れると酔《よひ》が足りない。もすこし飲んで出れば可《よ》かつたと思つた。
愛宕町《あたごちやう》は七八丁の距離しかないので銀之助は静《しづ》のこと、今の妻《さい》の元子《もとこ》のことを考へながら、歩《あゆ》むともなく、徐々《のろ/\》歩《あ》るいた。
成程《なるほど》比べて見ると静《しづ》には何処《どこ》か卑《いや》しいところがあつて、元子にはそれがない。
静《しづ》の卑《いや》しいやうに他《ひと》から思はれるところは何故《なぜ》であるかと考へた。静《しづ》には何処《どこ》かに色ッぽい風《ふう》がある。女性《によせい》にはなくてならぬ節操《みさを》といふ釘《くぎ》が一|本《ぽん》足りないで、其《その》為《た》め身体《からだ》全体に『たるみ』が出来て居る、其《その》『たるみ』が卑《いや》しい色を
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