節操
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)房《ふさ》、奥様《おくさん》の出る時何とか言つたかい

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一杯|吸《す》へないなんて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](明治40[#「40」は縦中横]年9月「太陽」)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)忌々《いま/\》しさうに
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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『房《ふさ》、奥様《おくさん》の出る時何とか言つたかい。』と佐山銀之助《さやまぎんのすけ》は茶の間に入《はひ》ると直《す》ぐ訊《きい》た。
『今日《けふ》は講習会から後藤様《ごとうさん》へ一寸《ちよつと》廻《まは》るから少《すこ》し遅くなると被仰《おつしや》いました。』
『飯《めし》を食《くは》せろ!』と銀之助は忌々《いま/\》しさうに言つて、白布《はくふ》の覆《か》けてある長方形の食卓の前にドツカと坐《す》はつた。
 女中の房《ふさ》は手早く燗瓶《かんびん》を銅壺《どうこ》に入れ、食卓の布を除《と》つた。そして更《さら》に卓上の食品《くひもの》を彼所《かしこ》此処《こゝ》と置き直して心配さうに主人の様子をうかがつた。
 銀之助は外套《ぐわいたう》も脱がないで両臂《りやうひぢ》を食卓に突いたまゝ眼《め》を閉《とぢ》て居る。
『お衣服《めし》をお着更《きかへ》になつてから召上《めしあが》つたら如何《いかゞ》で御座《ござ》います。』と房《ふさ》は主人の窮屈さうな様子を見て、恐る/\言つた。御気慊《ごきげん》を取る積《つもり》でもあつた。何故《なぜ》主人が不気慊《ふきげん》であるかも略《ほゞ》知つて居るので。
『面倒臭い此儘《このまゝ》で食《く》ふ、お燗《かん》は最早《もう》可《い》いだらう。』
 房《ふさ》は燗瓶《かんびん》を揚《あげ》て直《す》ぐ酌《しやく》をした。銀之助は会社から帰りに何処《どこ》かで飲んで来たと見え、此時《このとき》既《すで》にやゝ酔《よつ》て居たのである。酔《よ》へば蒼白《あをじろ》くなる顔は益々《ます/\》蒼白《あをじろ》く秀《ひい》でた眉《まゆ》を寄せて口を一文字に結んだのを見ると房《ふさ》は可恐《こはい》と思つた。
 二三杯ぐい/\飲んでホツと嘆息《ためいき》をしたが、銀之助は如何《どう》考《かん》がへて見ても忌々《いま/\》しくつて堪《たま》らない。今日《けふ》は平時《いつも》より遅く故意《わざ》と七時過ぎに帰宅《かへ》つて見たが矢張《やはり》予想通り妻《さい》の元子《もとこ》は帰つて居ない。これなら下宿屋に居るも同じことだと思ふ位《くらゐ》なら未《ま》だ辛棒《しんぼう》も出来るが銀之助の腹の底には或物《あるもの》がある。
『何時頃《なんじごろ》に帰ると言つた。』
『何とも被仰《おつしや》いませんでした。』と房《ふさ》は言悪《いひにく》さうに答へる。
 後藤へ廻《ま》はるなら廻《ま》はると朝《あさ》自分が出る前にいくらでも言ふ時《ひま》があるじやアないかと思ふと、銀之助は思はず
『人を馬鹿にして居やアがる。』と唸《うな》るやうに言つた。そして酒ばかりぐい/\呑《の》むので、房《ふさ》は
『旦那様《だんなさま》何か召上《めしあ》がりませんか、』と如何《どう》かして気慊《きげん》を取る積《つも》りで優しく言つた。
『見ろ、何が食へる。薄ら寒い秋の末《すゑ》に熱い汁が一杯|吸《す》へないなんて情《なさけ》ないことがあるものか。下宿屋だつて汁ぐらゐ吸はせる。』
 銀之助の不平は最早《もう》二月《ふたつき》前からのことである。そして平時《いつ》も此《この》不平を明白《あからさま》に口へ出して言ふ時は『下宿屋だつて』を持出《もちだ》す。決して腹の底の或物《あるもの》は出さない。
 房《ふさ》は『下宿屋』が出たので沈黙《だまつ》て了《しま》つた。銀之助は急に起立《たちあ》がつて。
『出て来る。』
『最早《もう》直《ぢ》き奥様《おくさん》がお帰宅《かへ》りになりませう。』と房《ふさ》は驚いて止《と》めるやうに言つた。
『奥様《おくさん》の帰宅《かへる》のを待たないでも可《い》いじやアないか。』
 銀之助はむちやくちや腹《ばら》で酒ばかし呑《の》んで斯《か》うやつて居るのが、女房の帰《か》へるのを待つて居るやうな気がしたので急に外に飛び出したくなつたのである。
『外で何を勝手な真似《まね》をして居るか解《わか》りもしない女房のお帰宅《かへり》を謹《つゝし》んでお待申《まちまう》す亭主じやアないぞ』といふのが銀之助の腹である。
『それはさうで御座《ござ》いますが、最早《もう》直《ぢ》きお帰りになりませうから。』と房《ふさ》は飽《あ》くまで止め
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