たが、銀之助は如何《どう》考《かん》がへて見ても忌々《いま/\》しくつて堪《たま》らない。今日《けふ》は平時《いつも》より遅く故意《わざ》と七時過ぎに帰宅《かへ》つて見たが矢張《やはり》予想通り妻《さい》の元子《もとこ》は帰つて居ない。これなら下宿屋に居るも同じことだと思ふ位《くらゐ》なら未《ま》だ辛棒《しんぼう》も出来るが銀之助の腹の底には或物《あるもの》がある。
『何時頃《なんじごろ》に帰ると言つた。』
『何とも被仰《おつしや》いませんでした。』と房《ふさ》は言悪《いひにく》さうに答へる。
 後藤へ廻《ま》はるなら廻《ま》はると朝《あさ》自分が出る前にいくらでも言ふ時《ひま》があるじやアないかと思ふと、銀之助は思はず
『人を馬鹿にして居やアがる。』と唸《うな》るやうに言つた。そして酒ばかりぐい/\呑《の》むので、房《ふさ》は
『旦那様《だんなさま》何か召上《めしあ》がりませんか、』と如何《どう》かして気慊《きげん》を取る積《つも》りで優しく言つた。
『見ろ、何が食へる。薄ら寒い秋の末《すゑ》に熱い汁が一杯|吸《す》へないなんて情《なさけ》ないことがあるものか。下宿屋だつて汁ぐらゐ吸はせる。』
 銀之助の不平は最早《もう》二月《ふたつき》前からのことである。そして平時《いつ》も此《この》不平を明白《あからさま》に口へ出して言ふ時は『下宿屋だつて』を持出《もちだ》す。決して腹の底の或物《あるもの》は出さない。
 房《ふさ》は『下宿屋』が出たので沈黙《だまつ》て了《しま》つた。銀之助は急に起立《たちあ》がつて。
『出て来る。』
『最早《もう》直《ぢ》き奥様《おくさん》がお帰宅《かへ》りになりませう。』と房《ふさ》は驚いて止《と》めるやうに言つた。
『奥様《おくさん》の帰宅《かへる》のを待たないでも可《い》いじやアないか。』
 銀之助はむちやくちや腹《ばら》で酒ばかし呑《の》んで斯《か》うやつて居るのが、女房の帰《か》へるのを待つて居るやうな気がしたので急に外に飛び出したくなつたのである。
『外で何を勝手な真似《まね》をして居るか解《わか》りもしない女房のお帰宅《かへり》を謹《つゝし》んでお待申《まちまう》す亭主じやアないぞ』といふのが銀之助の腹である。
『それはさうで御座《ござ》いますが、最早《もう》直《ぢ》きお帰りになりませうから。』と房《ふさ》は飽《あ》くまで止め
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