石清虚
國木田獨歩
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)雲飛《うんぴ》といふ人は
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|切《さい》頓着《とんぢやく》せず、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)安然《あんぜん》[#「然」に「ママ」の注記]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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雲飛《うんぴ》といふ人は盆石《ぼんせき》を非常に愛翫《あいぐわん》した奇人《きじん》で、人々から石狂者《いしきちがひ》と言はれて居たが、人が何と言はうと一|切《さい》頓着《とんぢやく》せず、珍《めづら》しい石の搜索《さうさく》にのみ日を送つて居た。
或日《あるひ》近所《きんじよ》の川《かは》に漁《れふ》に出かけて彼處《かしこ》の淵《ふち》此所《こゝ》の瀬《せ》と網《あみ》を投《う》つて廻《ま》はるうち、ふと網に掛《かゝ》つたものがある、引《ひ》いて見たが容易《ようい》に上《あが》らないので川に入《はひ》つて探《さぐ》り試《こゝろ》みると一抱《ひとかゝへ》もありさうな石《いし》である。例の奇癖《きへき》は斯《かう》いふ場合《ばあひ》にも直《す》ぐ現《あら》はれ、若しや珍石《ちんせき》ではあるまいかと、抱《だ》きかゝへて陸《をか》に上《あ》げて見ると、果《はた》して! 四|面《めん》玲瓏《れいろう》、峯《みね》秀《ひい》で溪《たに》幽《かすか》に、亦《また》と類なき奇石《きせき》であつたので、雲飛《うんぴ》先生《せんせい》涙《なみだ》の出るほど嬉《うれ》しがり、早速《さつそく》家《いへ》に持《も》ち歸《かへ》つて、紫檀《したん》の臺《だい》を造《こしら》え之を安置《あんち》した。
靈《れい》なる哉《かな》この石、天《てん》の雨《あめ》降《ふら》んとするや、白雲《はくうん》油然《ゆぜん》として孔々《こう/\》より湧出《わきい》で溪《たに》を越《こ》え峯《みね》を摩《ま》する其|趣《おもむき》は、恰度《ちやうど》窓《まど》に倚《よ》つて遙《はる》かに自然《しぜん》の大景《たいけい》を眺《なが》むると少《すこし》も異《ことな》らないのである。
權勢家《けんせいか》某《なにがし》といふが居て此《この》靈妙《れいめう》を傳《つた》へ聞《き》き、一|見《けん》を求《もとめ》に來《き》た、雲飛《うんぴ》は大得意《だいとくい》でこれを座《ざ》に通《とほ》して石を見せると、某《なにがし》も大に感服《かんぷく》して眺《ながめ》て居たが急《きふ》に僕《ぼく》に命《めい》じて石を擔《かつ》がせ、馬《うま》に策《むちう》つて難有《ありがた》うとも何《なん》とも言はず去《い》つてしまつた。雲飛《うんぴ》は足《あし》ずりして口惜《くやし》がつたが如何《どう》することも出來《でき》ない。
さて某《なにがし》は僕《ぼく》を從《したが》へ我家《わがや》をさして歸《かへ》る途《みち》すがら曩《さき》に雲飛《うんぴ》が石を拾《ひろ》つた川と同《おなじ》流《ながれ》に懸《かゝ》つて居る橋《はし》まで來ると、僕《ぼく》は少《すこ》し肩《かた》を休《やす》める積《つも》りで石を欄干《らんかん》にもたせて吻《ほつ》と一息《ひといき》、思《おも》はず手が滑《すべ》つて石は水煙《みづけむり》を立《た》て河底《かてい》に沈《しづ》んで了《しま》つた。
言《い》ふまでもなく馬《うま》を打《う》つ策《むち》は僕《ぼく》の頭上《づじやう》に霰《あられ》の如く落《お》ちて來た。早速《さつそく》金《かね》で傭《やと》はれた其邊《そこら》の舟子《ふなこ》共《ども》幾人《いくにん》は魚《うを》の如く水底《すゐてい》を潛《くゞ》つて手に觸《ふ》れる石といふ石は悉《こと/″\》く岸《きし》に拾《ひろ》ひ上《あげ》られた。見る間に何《なん》十|個《こ》といふヘボ石の行列《ぎやうれつ》が出來た。けれども靈妙《れいめう》なる石は遂《つひ》に影《かげ》をも見せないので流石《さすが》の權勢家《けんせいか》も一先《ひとまづ》搜索《さうさく》を中止し、懸賞《けんしやう》といふことにして家《いへ》に歸《かへ》つた。懸賞百兩と聞《きい》て其日から河にどぶん/\飛《とび》込む者が日に幾十人《なんじふにん》さながらの水泳場《すゐえいぢやう》を現出《げんしゆつ》したが何人《だれ》も百兩にあり着《つ》くものは無《なか》つた。
雲飛《うんぴ》は石を奪《うば》はれて落膽《らくたん》し、其後は家《うち》に閉籠《とぢこも》つて外出しなかつたが、石《いし》が河《かは》に落《おち》て行衞《ゆくへ》不明《ふめい》になつたことを傳《つた》へ聞《き》き、或朝《あるあさ》早《はや》く家を出で石の落《お》ちた跡《あと》を弔《とむら》ふべく橋上《けうじやう》に立《たつ》て下を見ると、河水《かすゐ》清徹《せいてつ》、例《れい》の石がちやんと目《め》の下《した》に横《よこた》はつて居たので其まゝ飛《と》び込《こ》み、石を懷《だい》て濡鼠《ぬれねずみ》のやうになつて逃《にぐ》るが如《ごと》く家《うち》に歸《かへ》つて來た。最早《もう》〆《しめ》たものと、今度は客間《きやくま》に石を置《お》かず、居間《ゐま》の床《とこ》に安置《あんち》して何人にも祕《かく》して、只だ獨《ひと》り樂《たのし》んで居た。
すると一日《あるひ》一人《ひとり》の老叟《らうそう》が何所《どこ》からともなく訪《たづ》ねて來て祕藏《ひざう》の石を見せて呉《く》れろといふ、イヤその石は最早《もう》他人《たにん》に奪《と》られて了《しま》つて久《ひさ》しい以前から無いと謝絶《ことわ》つた。老叟《らうそう》は笑《わら》つて客間《きやくま》にちやんと据《す》えてあるではないかといふので、それでは客間《きやくま》に來《き》て御覽《ごらん》なさい決《けつ》して有りはしないからと案内《あんない》して内に入《はひ》つて見ると、こは如何《いか》に、居間《ゐま》に隱《かく》して置いた石が何時《いつ》の間《ま》にか客間の床《とこ》に据《すゑ》てあつた。雲飛《うんぴ》は驚愕《びつくり》して文句《もんく》が出《で》ない。
老叟《らうそう》は靜《しづ》かに石を撫《な》でゝ、『我家《うち》の石が久《ひさし》く行方《ゆきがた》知《しれ》ずに居たが先づ/\此處《こゝ》にあつたので安堵《あんど》しました、それでは戴《いたゞ》いて歸《かへ》ることに致《いた》しましよう。』
雲飛《うんぴ》は驚《おどろ》いて『飛《と》んだことを言はるゝ、これは拙者《せつしや》永年《ながねん》祕藏《ひざう》して居るので、生命《いのち》にかけて大事《だいじ》にして居るのです』
老叟《らうそう》は笑《わら》つて『さう言はるゝには何《なに》か證據《しようこ》でも有《ある》のかね、貴君《あなた》の物《もの》といふ歴《れき》とした證據《しやうこ》が有るなら承《うけたま》はり度《た》いものですなア』
雲飛《うんぴ》は返事《へんじ》に困《こま》つて居ると老叟《らうそう》の曰く『拙者《せつしや》は故《ふるく》から此石とは馴染《なじみ》なので、この石の事なら詳細《くはし》く知《しつ》て居るのじや、抑《そもそ》も此石には九十二の竅《あな》がある、其中の巨《おほき》な孔《あな》の中には五《いつゝ》の堂宇《だうゝ》がある、貴君《あなた》は之れを知つて居らるゝか』
言はれて雲飛《うんぴ》は仔細《しさい》に孔中《こうちゆう》を見《み》ると果して小さな堂宇《だうゝ》があつて、粟粒《あはつぶ》ほどの大さで、一寸《ちよつと》見《み》た位《くらゐ》では決《けつ》して氣《き》が附《つか》ぬほどのものである、又た孔竅《あな》の數《かず》を計算《けいさん》するとこれ亦た九十二ある。そこで内心《ないしん》非常《ひじやう》に驚《おどろ》いたけれど尚《なほ》も石を老叟《らうそう》に渡《わた》すことは惜《をし》いので色々《いろ/\》と言《い》ひ爭《あらそ》ふた。
老叟は笑《わら》つて『先《ま》づ左樣《さう》言《い》はるゝならそれでもよし、イザお暇《いとま》を仕《し》ましよう、大《おほき》にお邪魔《じやま》で御座《ござ》つた』と客間《きやくま》を出たので雲飛《うんぴ》も喜《よろこ》び門《もん》まで送《おく》り出て、内に還《かへ》つて見ると石《いし》が無い。こいつ彼《あ》の老爺《おやぢ》が盜《ぬす》んだと急《きふ》に追《おつ》かけて行くと老人|悠々《いう/\》として歩《ある》いて居るので直《す》ぐ追着《おひつ》くことが出來た。其|袂《たもと》を捉《とら》へて『餘《あんま》りじやアありませんか、何卒《どうか》返却《かへ》して戴《いたゞ》きたいもんです』と泣聲《なきごゑ》になつて訴《うつた》へた。
『これは異《い》なことを言《い》はるゝものじや、あんな大《おほき》な石《いし》が如何《どう》して袂《たもと》へ入《はひ》る筈《はず》がない』と老人《ろうじん》に言はれて見ると、袖《そで》は輕《かる》く風《かぜ》に飄《ひるが》へり、手には一本の長《なが》い杖《つゑ》を持《もつ》ばかり、小石《こいし》一つ持て居ないのである。ここに於て雲飛《うんぴ》は初《はじめ》て此《この》老叟《らうそう》決《けつし》て唯物《たゞもの》でないと氣《き》が着《つ》き、無理《むり》やりに曳張《ひつぱつ》て家《うち》へ連《つ》れ歸《かへ》り、跪《ひざまづ》いて石《いし》を求《もと》めた。
乃《そこ》で叟の言《い》ふには『如何《どう》です、石は矢張《やは》り貴君《あなた》の物かね、それとも拙者《せつしや》のものかね。』
『イヤ全《まつ》たく貴君《あなた》の物で御座《ござい》ます、けれども何卒《どう》か枉《まげ》て私《わたくし》に賜《たまは》りたう御座《ござい》ます』
『それで事は解《わか》つた、室《へや》を見なさい、石は在るから。』
言はれて内室《ないしつ》に入《はひ》つて見ると成程《なるほど》石は何時《いつ》の間《ま》にか紫檀《したん》の臺《だい》に還《かへ》つて居たので益々《ます/\》畏敬《ゐけい》の念《ねん》を高《たか》め、恭《うや/\》しく老叟を仰《あふ》ぎ見ると、老叟『天下《てんか》の寶《たから》といふものは總《すべ》てこれを愛惜《あいせき》するものに與《あた》へるのが當然《たうぜん》じや、此石《このいし》も自《みづか》ら能《よ》く其|主人《しゆじん》を選《えら》んだので拙者《せつしや》も喜《よろこば》しく思《おも》ふ、然し此石の出やうが少《すこ》し早《はや》すぎる、出やうが早《はや》いと魔劫《まごふ》が未《ま》だ除《と》れないから何時《いつ》かはこれを持《もつ》て居るものに禍《わざはひ》するものじや、一先《ひとまづ》拙者が持歸《もちかへ》つて三年|經《たつ》て後《のち》貴君《あなた》に差上《さしあ》げることに仕《し》たいものぢや、それとも今《いま》これを此處に留《と》め置《おけ》ば貴君《あなた》の三年の壽命《いのち》を縮《ちゞめ》るが可《よい》か、それでも今|直《す》ぐに欲《ほし》う御座るかな。』
雲飛《うんぴ》は三年の壽命《じゆみやう》位《ぐらゐ》は何《なん》でもないと答《こた》へたので老叟、二本の指《ゆび》で一の竅《あな》に觸《ふれ》たと思ふと石は恰《あだか》も泥《どろ》のやうになり、手に隨《したが》つて閉《と》ぢ、遂《つひ》に三個《みつゝ》の竅《あな》を閉《ふさ》いで了《しま》つて、さて言ふには、『これで可《よ》し、殘《のこり》の竅《あな》の數《かず》が貴君《あなた》の壽命だ、最早《もう》これでお暇《いとま》と致《いた》さう』と飄然《へうぜん》老叟《らうそう》は立去《たちさつ》て了《しま》つた。留《と》めて留《と》まらず、姓名《な》を聞《きい》ても言《いは》ずに。
其後石は安然《あんぜん》[#「然」に「ママ」の注記]に雲飛の内室《ないしつ》に祕藏《ひざう》されて其|清秀《せいしう》の態《たい》を變《かへ》ず、靈妙《れいめう》の氣《き》を
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