》は妻を罵《のゝし》り子《こ》を毆《う》ち、怒《いかり》に怒《いか》り、狂《くる》ひに狂《くる》ひ、遂《つひ》に自殺《じさつ》しようとして何度《なんど》も妻子《さいし》に發見《はつけん》されては自殺することも出來《でき》ず、懊惱《あうなう》煩悶《はんもん》して居ると、一夜、夢《ゆめ》に一個《ひとり》の風采《ふうさい》堂々《だう/\》たる丈夫《ますらを》が現《あらは》れて、自分は石清虚《せきせいきよ》といふものである、決《けつ》して心配《しんぱい》なさるな、君と別《わか》れて居るのは一年|許《ばかり》のことで、明年八月二日、朝《あさ》早《はや》く海岱門《かいたいもん》に詣《まう》で見給《みたま》へ、二十錢の代價《だいか》で再《ふたゝ》び君《きみ》の傍《かたはら》に還《かへつ》て來ること受合《うけあひ》だと言ふ。其|言葉《ことば》の一々を雲飛は心に銘《めい》し、やゝ氣《き》を取直《とりなほ》して時節《じせつ》の來《く》るのを待《まつ》て居《ゐ》た。
 そこで彼《か》の權官《けんくわん》は首尾《しゆび》よく天下《てんか》の名石《めいせき》を奪《うば》ひ得《え》てこれを案頭《あんとう》に置《おい》て日々《ひゞ》眺《なが》めて居たけれども、噂《うはさ》に聞《き》きし靈妙《れいめう》の働《はたらき》は少しも見せず、雲の湧《わく》などいふ不思議《ふしぎ》を示《しめ》さないので、何時《いつ》しか石のことは打忘《うちわす》れ、室《へや》の片隅《かたすみ》に放擲《はうてき》して置いた。
 其|翌年《よくとし》になり權官は或《ある》罪《つみ》を以て職《しよく》を剥《はが》れて了《しま》い、尋《つい》で死亡《しばう》したので、僕《ぼく》が竊《ひそ》かに石を偸《ぬす》み出して賣《う》りに出《で》たのが恰も八月二日の朝であつた。
 此日雲飛は待《ま》ちに待《ま》つた日が來《き》たので夜《よ》の明方《あけがた》に海岱門《かいたいもん》に詣《まう》で見ると、果《はた》して一人の怪《あや》しげな男が名石《めいせき》を擔《かつ》いで路傍《みちばた》に立て居るのを見た。代《だい》を聞《き》くと果《はた》して二十錢だといふ、喜《よろこ》んで買《か》ひ取《と》り、石は又もや雲飛の手に還《かへ》つた。
 其後《そのご》雲飛《うんぴ》は壮健《さうけん》にして八十九歳に達《たつ》した。我が死期《しき》來《きた》れりと自分で葬儀《さうぎ》の仕度《したく》などを整《とゝの》へ又《ま》た子《こ》に遺言《ゆゐごん》して石を棺《くわん》に收《おさ》むることを命《めい》じた。果《はた》して間《ま》もなく死《し》んだので子は遺言《ゆゐごん》通《どほ》り石を墓中《ぼちゆう》に收《をさ》めて葬《はうむ》つた。
 半年ばかり經《たつ》と何者《なにもの》とも知れず、墓《はか》を發《あば》いて石を盜《ぬす》み去《さつ》たものがある。子は手掛《てがかり》がないので追《お》ふことも出來ず其まゝにして二三日|經《たつ》た。一日|僕《ぼく》を從《したが》へて往來《わうらい》を歩《ある》いて居ると忽《たちま》ち向《むかふ》から二人の男、額《ひたひ》から汗《あせ》を水《みづ》の如く流《なが》し、空中《くうちゆう》に飛《と》び上《あが》り飛《と》び上《あが》りして走《はし》りながら、大聲《おほごゑ》で『雲飛《うんぴ》先生《せんせい》、雲飛先生! さう追駈《おつかけ》て下《くださ》いますな、僅《わづ》か四兩の金《かね》で石を賣りたいばかりに仕たことですから』と、恰《あだか》も空中《くうちゆう》人《ひと》あるごとくに叫《さけ》び來《く》るのに出遇《であ》つた。
 矢庭《やには》に引捕《ひつとら》へて官《くわん》に訴《うつた》へると二の句《く》もなく伏罪《ふくざい》したので、石の在所《ありか》も判明《はんめい》した。官吏《やくにん》は直《す》ぐ石を取寄《とりよ》せて一見すると、これ亦た忽《たちま》ち慾心《よくしん》を起《おこ》し、これは官《くわん》に没收《ぼつしう》するぞと嚴《おごそ》かに言《い》ひ渡《わた》した。其處《そこ》で廷丁《てい/\》は石を庫《くら》に入んものと抱《だ》き上《あげ》て二三歩|歩《ある》くや手は滑《すべ》つて石は地《ち》に墮《お》ち、碎《くだ》けて數《すう》十|片《ぺん》になつて了《しま》つた。
 雲飛《うんぴ》の子《こ》は許可《ゆるし》を得て其|片々《へんぺん》を一々《ひとつ/\》拾《ひろ》つて家に持歸《もちかへ》り、再《ふたゝ》び亡父《なきちゝ》の墓《はか》に收《をさ》めたといふことである。


底本:「國木田獨歩全集 第四巻」学習研究社
   1966(昭和41)年2月10日初版発行
入力:小林徹
校正:しず
1999年6月22日公開
2004年7月1日修正
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