小《ち》さい、中高《なかだか》の顔、いつも歯を染めている昔ふうの婦人《おんな》。口を少しあけて人のよさそうな、たわい[#「たわい」に傍点]のない笑いをいつもその目じりと口元に現わしているのがこの人の癖でした。
「そろそろ寝ようかと思っているところです。」と私が言ううち、婦人は火鉢《ひばち》のそばにすわって、
「先生私は少しお願いがあるのですが。」と言って言い出しにくい様子。「なんですか。」「六蔵のことでございます。あのようなばかですから、ゆくさきのことも案じられて、それを思う私は自分のばかを棚《たな》に上げて、六蔵のことが気にかかってならないのでございます。」
「ごもっともです。けれどもそうお案じなさるほどのこともありますまい。」とツイ私も慰めの文句を言うのはやはり人情でしょう。

       三

 私はその夜だんだんと母親の言うところを聞きましたが、何よりも感じたのは、親子の情ということでした。前にも言ったとおり、この婦人とてもよほど抜けていることは一見してわかるほどですが、それがわが子の白痴を心配することは、普通の親と少しも変わらないのです。
 そして母親もまた白痴に近いだけ、私はますます哀れを催しました。思わず私ももらい泣きをしたくらいでした。
 そこで私は、六蔵の教育を骨を折ってみる約束をして気の毒な婦人を帰し、その夜はおそくまで、いろいろと工夫《くふう》を凝らしました。さてその翌日からは、散歩ごとに六蔵を伴なうことにして、機に応じていくらかずつ知能の働きを加えることにいたしました。
 第一に感じたのは、六蔵に数の観念が欠けていることです。一から十までの数がどうしても読めません。幾度もくり返して教えれば、二、三と十まで口で読み上げるだけのことはしますが、道ばたの石ころを拾うて三つ並べて、いくつだとききますと、考えてばかりいて返事をしないのです。無理にきくと初めは例の怪しげな笑い方をしていますが、後には泣きだしそうになるのです。
 私も苦心に苦心を積み、根気よく努めていました。ある時は八幡宮《はちまんぐう》の石段を数えて登り、一《ひ》、二《ふ》、三《み》と進んで七つと止まり、七つだよと言い聞かして、さて今の石段はいくつだとききますと、大きな声で十《とお》と答える始末です。松の並木を数えても、菓子をほうびにその数を教えても、結果は同じことです。一《ひ》、二《ふ》、三《み》という言葉と、その言葉が示す数の観念とは、この子供の頭になんの関係をも持っていないのです。
 白痴に数の観念の欠けていることは聞いてはいましたが、これほどまでとは思いもよらず、私もある時は泣きたいほどに思い、子供の顔を見つめたまま、涙がひとりでに落ちたこともありました。
 しかるに六蔵はなかなかの腕白者《わんぱくもの》で、いたずらをするときはずいぶん人を驚かすことがあるのです。山登りがじょうずで、城山を駆け回るなどまるで平地を歩くように、道のあるところ無い所、サッサと飛ぶのです。ですからこれまでも、田口の者が六蔵はどこへ行ったかと心配していると、昼飯を食ったまま出て日の暮れ方になって、城山の崖《がけ》から田口の奥庭にひょっくり飛びおりて帰って来るのだそうです。木拾いの娘が六蔵の姿を見て逃げ出したのは、きっとこれまで幾度となくこの白痴の腕白者におどされたものと私も思い当たったのであります。
 けれどもまた六蔵はじきに泣きます。母親が兄の手前を兼ねておりおりひどくしかることがあり、手の平で打つこともあります、その時は頭をかかえ身を縮めて泣き叫びます。しかしすぐと笑っているさまは、打たれたことをすっかり忘れてしまったらしく、これを見て私は、なおさらこの白痴の痛ましいことを感じました。
 かかるありさまですから、六蔵が歌など知っているはずもなさそうですが、知っています。木拾いの歌うような俗歌をそらんじて、おりおり低い声でやっています。
 ある日私は一人で城山に登りました、六蔵を連れてと思いましたが、姿が見えなかったのです。
 冬ながら九州は暖国ゆえ、天気さえよければごく暖かで、空気は澄んでいるし、山登りにはかえって冬がよいのです。
 落葉《らくよう》を踏んで頂に達し、例の天主台の下までゆくと、寂々《せきせき》として満山声なきうちに、何者か優しい声で歌うのが聞こえます、見ると天主台の石垣《いしがき》の角《かど》に、六蔵が馬乗りにまたがって、両足をふらふら動かしながら、目を遠く放って俗歌を歌っているのでした。
 空の色、日の光、古い城あと、そして少年、まるで絵です。少年は天使です。この時私の目には、六蔵が白痴とはどうしても見えませんでした。白痴と天使、なんという哀れな対照でしょう。しかし私はこの時、白痴ながらも少年はやはり自然の子であるかと、つくづく感じました。

前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング