知っていますね。」「おっかさんに教わったのだ。」「学校へゆきますか。」「行かない。」「なぜ行かないの?」
子供は頭をかしげて向こうを見ていますから考えているのだと私は思って待っていました。すると突然子供はワアワアと唖《おし》のような声を出して駆け出しました。「六さん、六さん」と驚いて私が呼び止めますと、
「からす、からす」と叫びながら、あとも振りむかないで天主台を駆けおりて、たちまちその姿を隠してしまいました。
二
私はそのころ下宿屋《やどや》住まいでしたが、なにぶん不自由で困りますからいろいろ人に頼んで、ついに田口という人の二階二間を借り、衣食いっさいのことを任すことにしました。
田口というは昔の家老職、城山の下に立派な屋敷を昔のままに構えて有福《ゆうふく》に暮らしていましたので、この二階を貸し、私を世話してくれたのは少なからぬ好意であったのです。
ところで驚いたのは、田口に移った日の翌日、朝早く起きて散歩に出ようとすると、城山で会った子供が庭を掃いていたことです。私は、
「六さん、お早う」と声をかけましたが、子供は私の顔を見てニヤリ笑ったまま、草ぼうきで落ち葉を掃き、言葉を出しませんでした。
日のたつうちに、この怪しい子供の身の上が次第にわかって来ました、と言うのは、畢竟《ひっきょう》私が気をつけて見たり聞いたりしたからでしょう。
子供は名を六蔵と呼びまして、田口の主人《あるじ》には甥《おい》に当たり、生まれついての白痴であったのです。母親というは四十五六、早く夫に別れまして実家《さと》に帰り、二人の子を連れて兄の世話になっていたのであります。六蔵の姉はおしげと呼び、その時十七歳、私の見るところでは、これもまた白痴と言ってよいほど哀れな女でした。
田口の主人《あるじ》も初めのほどは白痴のことを隠しているようでしたが、何をいうにも隠しうることでないのですから、ついにある夜のこと、私の室《へや》に来て教育の話の末に、甥《おい》と姪《めい》の白痴であることを話しだし、どうにかしてこれにいくぶんの教育を加えることはできないものかと、私に相談をしました。
主人《あるじ》の語るところによると、この哀れなきょうだいの父親というは、非常な大酒家で、そのために命をも縮め、家産をも蕩尽《とうじん》したのだそうです。そして姉も弟《おとと》も初めのうちは小学校に出していたのが、二人とも何一つ学び得ず、いくら教師が骨を折ってもむだで、到底ほかの生徒といっしょに教えることはできず、いたずらに他の腕白《わんぱく》生徒《せいと》の嘲弄《ちょうろう》の道具になるばかりですから、かえって気の毒に思って退学をさしたのだそうです。
なるほど詳しく聞いてみると、姉も弟《おとと》も全くの白痴であることが、いよいよ明らかになりました。
しかるに主人《あるじ》の口からは言いませんが、主人《あるじ》の妹、すなわちきょうだいの母親というも、普通から見るとよほど抜けている人で、二人の子供の白痴の原因は、父の大酒にもよるでしょうが、母の遺伝にも因ることは私はすぐ看破しました。
白痴教育というがあることは私も知っていますが、これには特別の知識の必要であることですから、私も田口の主人《あるじ》の相談にはうかと乗りませんでした。ただその容易でないことを話しただけでよしました。
けれどもその後、だんだんおしげと六蔵の様子を見ると、いかにも気の毒でたまりません。不具のうちにもこれほど哀れなものはないと思いました。唖《おし》、聾《つんぼ》、盲《めしい》などは不幸には相違ありません。言うあたわざるもの、聞くあたわざる者、見るあたわざる者も、なお思うことはできます。思うて感ずることはできます。白痴となると、心の唖《おし》、聾《つんぼ》、盲《めくら》ですからほとんど禽獣《きんじゅう》に類しているのです。ともかく人の形をしているのですから全く感じがないわけではないが、普通の人と比べては十の一にも及びません。また不完全ながらも心の調子が整うていればまだしもですが、さらにいびつになってできているのですから、様子がよほど変です、泣くも笑うも喜ぶも悲しむも、みな普通の人から見ると調子が狂っているのだからなお哀れです。
おしげはともかく、六蔵のほうは子供だけに無邪気《むじゃき》なところがありますから、私は一倍哀れに感じ、人の力でできることならば、どうにかして少しでもその知能の働きを増してやりたいと思うようになりました。
すると田口の主人《あるじ》と話してから二週間もたった後のこと、夜の十時ごろでした、もう床につこうかと思っているところへ、
「先生、お寝《やす》みですか」と言いながら私の室《へや》にはいって来たのは六蔵の母親です。背の低い、痩形《やせがた》の、頭の
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