※[#アステリズム、1−12−94]
女は僕らの舟を送って三四丁も来たが、徳二郎にしかられてこぐ手を止めた、そのうちに二|艘《そう》の小舟はだんだん遠ざかった。舟の別れんとする時、女は僕に向かっていつまでも、
「わたしの事を忘れんでいてくださいましナ」とくり返して言った。
その後十七年の今日まで、僕はこの夜の光景をはっきりと覚えていて、忘れようとしても忘るることができないのである。今もなお、哀れな女の顔が目のさきにちらつく。そしてその夜、うすいかすみのように僕の心を包んだ一片の哀情《かなしみ》は、年とともに濃くなって、今はただその時の僕の心持ちを思い起こしてさえ堪えがたい、深い、静かな、やる瀬のない悲哀《かなしみ》を覚えるのである。
その後徳二郎は僕の叔父《おじ》の世話で立派な百姓になり、今では二人の子の父親になっている。
流れの女は朝鮮に流れ渡って後、さらにいずこの果てに漂泊してそのはかない生涯《しょうがい》を送っているやら、それともすでにこの世を辞して、むしろ静粛なる死の国におもむいたことやら、僕はむろん知らないし、徳二郎も知らんらしい。
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