西洋形の帆前船で、その積み荷はこの浜でできる食塩、そのほか土地の者で朝鮮貿易に従事する者の持ち船も少なからず、内海を行き来する和船もあり。両岸の人家低く高く、山に拠《よ》り水に臨むその数|数百戸《すひゃっこ》。
 入り江の奥より望めば舷燈《げんとう》高くかかりて星かとばかり、燈影低く映りて金蛇《きんだ》のごとく。寂漠《せきばく》たる山色月影のうちに浮かんで、あだかも絵のように見えるのである。
 舟の進むにつれてこの小さな港の声が次第に聞こえだした。僕は今この港の光景を詳しく説くことはできないが、その夜僕の目に映って今日なおありありと思い浮かべることのできるだけを言うと、夏の夜の月明らかな晩であるから、船の者は甲板にいで、家の者は外にいで、海にのぞむ窓はことごとく開かれ、ともし火は風にそよげども水面は油のごとく、笛を吹く者あり、歌う者あり、三味線の音につれて笑いどよめく声は水に臨める青楼より起こるなど、いかにも楽しそうな花やかなありさまであったことで、しかし同時にこの花やかな一幅の画図《がず》を包むところの、寂寥《せきりょう》たる月色山影水光を忘るることができないのである。
 帆前船の暗い影の下をくぐり、徳二郎は舟を薄暗い石段のもとに着けた。
「お上がりなさい」と徳は僕を促した。堤の下で「お乗りなさい」と言ったぎり、彼は舟中《しゅうちゅう》僕に一語を交じえなかったから、僕はなんのために徳二郎がここに自分を伴のうたのか少しもわからない、しかし言うままに舟を出た。
 もやいをつなぐや、徳二郎も続いて石段に上がり、先に立ってずんずん登って行く、そのあとから僕も無言でついて登った。石段はその幅半間より狭く、両側は高い壁である。石段を登りつめると、ある家の中庭らしい所へ出た。四方板べいで囲まれ、すみに用水おけが置いてある、板べいの一方は見越しに夏みかんの木らしく暗く茂ったのがその頂を出している、月の光はくっきりと地に印して寂《せき》として人のけはいもない。徳二郎はちょっと立ち止まって聞き耳を立てたようであったが、つかつかと右なるほうの板べいに近づいて向こうへ押すと、ここはくぐりになっていて、黒い戸が音もなくあいた。見ると、戸にすぐ接して梯子段《はしごだん》がある。戸があくと同時に、足音静かに梯子段《はしごだん》をおりて来て、
「徳さんかえ?」と顔をのぞいたのは若い女であった。
「待ったかね?」と徳二郎は女に言って、さらに僕のほうを顧み、
「坊様を連れて来たよ」と言い足した。
「坊様、お上がんなさいナ。早くお前さんも上がってください、ここでぐずぐずしているといけないから」と女は徳二郎を促したので、徳二郎は早くも梯子段《はしごだん》を登りはじめ、
「坊様、暗うございますよ」と言ったぎり、女とともに登ってしまったから僕もしかたなしにそのあとについて暗い、狭い、急な梯子段《はしごだん》を登った。
 なんぞ知らん、この家は青楼の一で、今女に導かれてはいった座敷は海に臨んだ一間《ひとま》、欄によれば港内はもちろん入り江の奥、野の末、さては西なる海の果てまでも見渡されるのである。しかし座敷は六畳敷の、畳も古び、見るからしてあまり立派な室《へや》ではなかった。
「坊様、さアここへいらっしゃい」と女は言って、座ぶとんをてすりのもとに運び、夏だいだいそのほかのくだもの菓子などを僕にすすめた。そして次の間をあけると酒肴《さけさかな》の用意がしてある。それを運びこんで女と徳二郎はさし向かいにすわった。
 徳二郎はふだんにないむずかしい顔をしていたが、女のさす杯を受けて一息にのみ干し、
「いよいよ何日《いつ》と決まった?」と女の顔をじっと見ながらたずねた。女は十九か二十《はたち》の年ごろ、色青ざめてさも力なげなるさまは病人ではないかと僕の疑ったくらい。
「あす、あさって、明々後日《やのあさって》」と女は指を折って、「やのあさってに決まったの。しかしね、わたしは今になって、また気が迷って来たのよ」と言いつつ首をたれていたが、そっと袖《そで》で目をぬぐった様子。その間に徳二郎は手酌《てじゃく》で酒をグイグイあおっていた。
「今さらどうと言ってしかたがないじゃアないか。」
「それはそうだけれど――考えてみると、死んだほうがなんぼ増しだか知れないと思って。」
「ハッハッヽヽヽヽ坊様、このねえさんが死ぬと言いますが、どうしましょうか。……オイオイ約束の坊様を連れて来たのだ、よく見てくれないか。」
「さっきから見ているのよ、なるほどよく似ていると思って感心しているのよ。」と女は言って、笑いを含んでじっと僕の顔を見ている。
「だれに似ているのだ。」と僕は驚いてたずねた。
「わたしの弟にですよ、坊様を弟に似ているなどともったい[#「もったい」に傍点]ない事だけれど、そら、これをご
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