りの楽しみ、朝早く起きて、淋しい士族屋敷の杉垣ばかり並んだ中をとぼとぼと歩るきだす時の心持はなんとも言えませんでした。山路三里は子供には少し難儀で初めのうちこそ母よりも先に勇ましく飛んだり跳《は》ねたり、田溝の鮒《ふな》に石を投げたりして参りますが峠にかかる半《なか》ほどでへこたれてしまいました。それを母が励まして絶頂の茶屋に休んで峠餅《とうげもち》とか言いまして茶屋の婆が一人ぎめの名物を喰わしてもらうのを楽しみに、また一呼吸《ひといき》の勇気を出しました。峠を越して半《なか》ほどまで来ると、すぐ下に叔母の村里が見えます、春さきは狭い谷々に霞《かすみ》がたなびいて画のようでございました、村里が見えるともう到《つ》いた気でそこの路傍《みちばた》の石で一休みしまして、母は煙草《たばこ》を吸い、私は山の崖《がけ》から落ちる清水を飲みました。
叔母の家は古い郷士で、そのころは大分家産が傾いていたそうですが、それでも私の目には大変金持のように見えたのでございます。太い大黒柱や、薄暗い米倉や、葛《かつら》の這い上った練塀《ねりべい》や、深い井戸が私には皆なありがたかったので、下男下女が私のことを城下の旦坊様と言ってくれるのがうれしかったのでございます。
けれども何より嬉《うれ》しくって今思いだしても堪りませんのは同じ年ごろの従兄弟《いとこ》と二人で遊ぶことでした。二人はよく山の峡間《はざま》の渓川《たにがわ》に山※[#「魚+條」、第4水準2−93−74]《やまばえ》を釣《つ》りに行ったものでございます。山岸の一方が淵《ふち》になって蒼々《あおあお》と湛《たた》え、こちらは浅く瀬になっていますから、私どもはその瀬に立って糸を淵に投げ込んで釣るのでございます。見上げると両側の山は切り削《そ》いだように突っ立って、それに雑木《ぞうき》や赭松《あかまつ》が暗く茂っていますから、下から瞻《み》ると空は帯のようなのです。声を立てると山に響いて山が唸《うな》ります、黙って釣っていると森《しん》としています。
ある日ふたりは余念なく釣っていますと、いつの間にか空が変って、さっと雨が降って来ました。ところがその日はことによく釣れるので二人とも帰ろうと言わないのです。太い雨が竿《さお》に中《あた》る、水面は水煙を立てて雨が跳《は》ねる、見あげると雨の足が山の絶頂から白い糸のように長く条白《しま》を立てて落ちるのです。衣服《きもの》はびしょぬれになる、これは大変だと思う矢先に、グイグイと強く糸を引く、上げると尺にも近い山※[#「魚+條」、第4水準2−93−74]の紫と紅《あか》の条《すじ》のあるのが釣れるのでございます、暴《あば》れるやつをグイと握って籠《びく》に押し込む時は、水に住む魚までがこの雨に濡れて他の時よりも一倍鮮やかで新しいように思われました。
『もう帰えろうか』と一人が言って此方をちょっと向きますが、すぐまた水面を見ます。
『帰ろうか』と一人が答えますが、これは見向きもしません、実際何を自分で言ったのかまるで夢中なのでございます。
そのうちに雷がすぐ頭の上で鳴りだして、それが山に響いて山が破裂するかと思うような凄い音がして来たので、二人は物をも言わず糸を巻いて、籠《びく》を提《さ》げるが早いかドンドン逃げだしました。途中まで来ると下男が迎えに来るのに逢いましたが、家に帰ると叔母《おば》と母とに叱《しか》られて、籠を井戸ばたに投げ出したまま、衣服を着更えすぐ物置のような二階の一室《ひとま》に入り小さくなって、源平盛衰記の古本を出して画を見たものです。
けれども母と叔母はさしむかいでいても決して笑い転《ころ》げるようなことはありません、二人とも言葉の少ない、物案じ顔の、色つやの悪い女でしたが、何か優しい低い声でひそひそ話し合っていました。一度は母が泣き顔をしている傍《そば》で叔母が涙ぐんでいるのを見ましたが私は別に気にも留めず、ただちょっとこわいような気がしてすぐと茶の間を飛び出したことがありました。
私は七日も十日も泊っていたいのでございますが、長くて四日も経ちますと母が帰ろうと言いますので仕方なしに帰るのでございます。一度は一人残っていると強情を張りましたので、母だけ先に帰りましたが、私は日の暮れかかりに縁先に立っていますと、叔母の家は山に拠って高く築《つ》きあげてありますから山里の暮れゆくのが見下されるのです。西の空は夕日の余光《なごり》が水のように冴《さ》えて、山々は薄墨の色にぼけ、蒼《あお》い煙が谷や森の裾《すそ》に浮いています、なんだかうら悲しくなりました。寺の鐘までがいつもとは違うように聞え、その長く曳《ひ》く音が谷々を渡って遠く消えてゆくのを聞きましたら、急に母が恋しくなって、なぜ一しょに帰らなかったろう、今時分は家に着い
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