て祖母《おばア》さんと何か話してござるだろうなど思いますと堪らなくなって叔母にこれからすぐ帰えると云いだしました。叔母は笑って取り合ってくれません、そのうちに燈火《あかり》が点《つ》く、従兄弟と挾《はさ》み将棊《しょうぎ》をやるなどするうちにいつか紛れてしまいましたが、次の日は下男に送られすぐ家に帰りました。
 また母と一しょに帰る時など、二人とも出かける時ほどの元気はありませんで、峠を越す時、母は幾度となく休みます。思い出しますのはその時の母の顔でございます。石に腰をおろしてほっと呼吸《いき》を吐《つ》いて言うに言われん悲しげな顔つきをします、その顔つきを見ますと私までが子供心にも悲しいような気がしまして黙ってつくねん[#「つくねん」に傍点]と母の傍《そば》に腰をかけているのでございます。そうすると母が、『お前腹がすきはせんか、腹がすいたら餅をお喰べ、出して上げようか』と言って合財嚢《がっさいぶくろ》の口を開きかけます。私が、『腹はすかない』と言えば、『そんなことを言わないで一つお喰べ、おっかさんも喰べるから』と言って無理に餅をくれます。そうされますと、私はなぜかなお悲しくなって、母の膝にしがみついて泣きたいほどに感じました。
 私は今でも母が恋しくって恋しくって堪らんのでございます」
 盲人は懐旧の念に堪えずや、急に言葉を止めて頭を垂れていたが、しばらくして(聴者《ききて》の誰人《たれ》なるかはすでに忘れはてたかのごとく熱心に)
「けれどもこれはあたりまえでございます、母はまるで私のために生きていましたので、一人の私をただむやみと可愛がりました。めったに叱ったこともありません、たまさか叱りましてもすぐに母の方から謝《あや》まるように私の気嫌を取りました。それで私は我儘《わがまま》な剛情者に育ちましたかと言うにそうではないので、腕白者のすることだけは一通りやりながら気が弱くて女のようなところがあったのでございます。
 これが昔気質の祖母《ばば》の気に入りません、ややともすると母に向いまして、
『お前があんまり優しくするから修蔵までが気の弱い児になってしまう。お前からしても少ししっかりして男は男らしく育てんといけませんぞ』とかく言ったものです。
 けれども母の性質《うまれつき》としてどうしても男は男らしくというような烈《はげ》しい育て方はできないのです。ただむやみと私が可愛いので、先から先と私の行く末を考えては、それを幸福《しあわせ》の方には取らないで、不幸せなことばかりを想い、ひとしお私がふびん[#「ふびん」に傍点]で堪らないのでございました。
 ある時、母は私の行く末を心配するあまりに、善教寺という寺の傍《そば》に店を出していた怪しい売卜者《うらないしゃ》のところへ私を連れて参りました。
 売卜者の顔はよく憶《おぼ》えております、丸顔の眼の深く落ちこんだ小さな老人で、顔つきは薄気味悪うございましたが母と話をするその言葉つきは大変に優しくって丁寧で、『アアさようかな、それは心配なことで、ごもっともごもっとも、よく私が卜《み》て進ぜます』という調子でございました。
 老人は私の顔を天眼鏡で覗《のぞ》いて見たり、筮竹《ぜいちく》をがちゃがちゃいわして見たり、まるで人相見と八卦見《はっけみ》と一しょにやっていましたが、やがてのことに、
『イヤ御心配なさるな、この児さんは末はきっと出世なさるる、よほどよい人相だ。けれど一つの難がある、それは女難だ、一生涯女に気をつけてゆけばきっと立派なものになる』と私の頭を撫《な》でまして、『むむ、いい児だ』としげしげ私の顔を見ました。
 母は大喜びに喜こびまして、家に帰えるやすぐと祖母にこのことを吹聴しましたところが祖母は笑いながら、
『男は剣難の方がまだ男らしいじゃないか、この児は色が白うて弱々しいからそれで卜者《うらないしゃ》から女難があると言われたのじゃ、けれども今から女難もあるまい、早くて十七八、遅くとも二十《はたち》ごろから気をつけるがよい』と申しました。
 ところが私にはその時(十二でした)もう女難があったのでございます。
 ここまでお話ししたのでございますから、これから私の女難の二つ三つを懺悔《ざんげ》いたしましょう。売卜者はうまく私の行く末を卜《うらな》い当てたのでございます。
 そのころ、私の家から三丁ばかり離れて飯塚という家がございましたがそこの娘におさよと申しまして十五ばかりの背《せい》のすらりとして可愛らしい児がいました。
 その児が途《みち》で私を見るときっとうちに遊びに来いと言うのです。私も初めのうちは行きませんでしたがあまりたびたび言うので一度参りますると、一時間も二時間も止めて還《かえ》さないで膝の上に抱き上げたり、頸《くび》にかじりついたり、頭の髪を丁寧に掻《か》
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング