出てから十年の間、いろいろな苦労をしたに似ず、やはり持って生まれた性質《しょうぶん》と見えまして、烈しいこともできず、烈しい言葉すらあまり使わず、見たところ女などには近よることもできない野暮天に見えますので、大工の藤吉が唐偏木で女の味も知らぬというのは決して無理ではなかったのです。実際私は意気で女難にかかったというよりか皆んな、おとなしくって野暮だからかえって女難にかかったのでございます。
 ある夜のことに藤吉が参りまして、洗濯物《せんたくもの》があるなら嚊《かかあ》に洗わせるから出せと申しますから、遠慮なく単衣《ひとえ》と襦袢《じゅばん》を出しました。そう致しますとそのあくる日の夕方に大工の女房が自分で洗濯物を持って参りまして、これだからお神さんを早くお持ちなさい、女房のありがた味はこれでもわかろうと私の膝の上に持って来たのを投げ出して帰えりました。この女はお俊《しゅん》と申しまして、年は二十四五でございます。長屋中でお俊はいつか噂にのぼり、またお俊の前でもお神さんはどう見ても意気だなぞと、賞《ほ》めそやす山の神があるくらいですから私の目にもこれはただの女ではないくらいのことは感づいていたのでございます。
 藤吉は毎晩のように来るようになりました。それは一ツは私から尺八を習おうという熱心であったでございますが、笛とか尺八とかいうものは性質《うまれつき》と見えまして藤吉は器用な男でありながらどうしても進歩いたしません。それでも屈せずブウブウ吹いていたのでございます。
 お俊も遊びに来るようになりました。初めは二人で押しかけて参りましたが後には日曜日など、藤吉のいない時は昼間でも一人で遊びに来て、一人でしゃべって帰ってゆくようになったのでございます。私も後には藤吉の家に出掛けて夜の十二時までもくだらん話をして遊ぶようになりました。お俊はしきりに私の世話を焼いて、飯まで炊いてくれることもあり、菜ができると持って来てくれる、私の役所から帰らぬうちにちゃんと晩の仕度をしてくれることもあり、それですから藤吉がある時冷かしまして、『お前はこのごろ亭主が二人できたから忙がしいなア』と言ったことがあります。けれども藤吉は決して私を疑ぐるようなことはなく、初めはただ隣りづきあいでしたのが後には、なんでも身の上のことを打ち明けて私に相談するようになりました。それですから私もそのつもりでつきあって、随分やつの力にもなってやり、時には金の用までたしてやりましたのでやつはなお私をまたない友と信じ、二日ばかり私が風邪をひいた時など一日は仕事を休んで私のそばに附いていたことさえござります。
 それに長屋中、皆な私を可愛がってくれまして、おとなしい方だよい方だ、珍しい堅人《かたじん》だと褒《ほ》めてくれるのでございます。ですからお俊ばかりでなくお神さんたちが頼みもせぬ用を達《た》してくれるのでございます。ところがおかしいのはお俊がこれを焼いて、何を私がついているによけいなお世話だと、お神さんたちの目の前でいやな顔をする、それをお神さんたちはなお面白半分に私の世話を焼いたこともありました、けれども、それでもってお俊と私の仲を長屋の者が疑ぐるかというに決してそうでなく、てんで私をば木か金で作ったもののように無類の堅人だと信じていたのでございます。けれどもお俊の方はそれほどの信用はないのです。ですからお俊さんは少し怪しいが、とても物にはならぬなど、明らさまに私に向って言った山の神さえいたのでございます。
 実際、お俊は怪しいと言われても仕方がありますまい。ある晩のことに私が床を延べていますと、お俊が飛んで参りまして、
『どうせ私じゃお気に入りませんよ』と言いざま布団《ふとん》を引ったくって自分でどんどん敷き『サア、旦那様お休みなさい、オー世話の焼ける亭主だ』と言いながら色気のある眼元でじっと私を見上げましたことなどは、ただの仕草ではなかったのでございます。そしてその時の私の心持を言いますと、決して長屋の者が信じていたほどの堅固なものでなかったので、木や石でない限り、やはり妙な心持がしたのでございます。
 私がある時藤吉に向い、『どうもお俊さんは意気だ、まるで素人じゃアないようだ』と申しますと、藤吉にやにや笑っていましたが、『うまいところを当てられた、実はあれはさる茶屋でかなり名を売った女中であったのを親方が見つけ出し、本人の心持を聞いて見ると堅気の職人のところにゆきたいというので、それこそ幸いと私に世話してくれたのだ』と少々得意の気味でお俊の身元を打ち明けたのでございます。その時からなおさら私はお俊のそぶりを妙に感じて来ました。
 けれどもまず平穏無事に日が経ちますうち、ちょうど八月の中ごろの馬鹿に熱い日の晩でございます、長屋の者はみんな外に出て涼んでいましたが私
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