四書の中でもこれだけは決してわが家《や》に入れないと高言していることを僕は知っていたゆえ、意地《いじ》わるくここへ論難の口火をつけたのである。
『フーンお前は孟子が好きか。』『ハイ僕は非常に好きでございます。』『だれに習った、だれがお前に孟子を教えた。』『父が教えてくれました。』『そうかお前はばかな親を持ったのう。』『なぜです、失敬じゃアありませんか他人《ひと》の親をむやみにばかなんて!』と僕はやっきになった。
『黙れ! 生意気な』と老人は底光りのする目を怒らして一喝《いっかつ》した。そうすると黙ってそばに見ていた孫娘が急に老人の袖《そで》を引いて『お祖父《じい》さん帰りましょうお宅《うち》へ、ね帰りましょう』と優しく言った。僕はそれにも頓着《とんじゃく》なく『失敬だ、非常に失敬だ!』
と叫んでわが満身の勇気を示した。老人は忙しく懐《ふところ》から孟子を引き出した、孟子を!
『ソラここを読んで見ろ』と僕の眼前《めさき》に突き出したのが例の君、臣を視《み》ること犬馬《けんば》のごとくんばすなわち臣の君を見ること国人《こくじん》のごとし云々《うんぬん》の句である。僕はかねてかくあるべしと期《ご》していたから、すらすらと読んで『これが何です』と叫んだ。
『お前は日本人か。』『ハイ日本人でなければ何です。』『夷狄《いてき》だ畜生《ちくしょう》だ、日本人ならよくきけ、君、君たらずといえども臣もって臣たらざるべからずというのが先王の教えだ、君、臣を使うに礼をもってし臣、君に事《つか》うるに忠をもってす、これが孔子《こうし》の言葉だ、これこそ日の本《もと》の国体に適《かな》う教えだ、サアこれでも貴様は孟子が好きか。』
 僕はこう問い詰められてちょっと文句に困ったがすぐと『そんならなぜ先生は孟子を読みます』と揚げ足を取って見た。先生もこれには少し行き詰まったので僕は畳《たた》みかけて『つまり孟子の言った事はみな悪いというのではないでしょう、読んで益になることが沢山あるでしょう、僕はその益になるところだけが好きというのです、先生だって同じことでしょう、』と小賢《こざか》しくも弁じつけた。
 この時孫娘は再び老人の袖を引いて帰宅《かえり》を促した。老先生は静かに起《た》ちあがりさま『お前そんな生意気なことを言うものでない、益になるところとならぬところが少年《こども》の頭でわかると思うか
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング