から持って来たお金なんか厭《いや》だと被仰《おっしゃ》ったのだから持て行かなくったって可う御座いますよ」と言い放って口惜《くや》し涙を流すところだが、お政にはそれが出来ない。母から厭味《いやみ》や皮肉を言われて泣いたのは唯《た》だ悲くって泣いたので、自分が優しく慰さむれば心も次第に静まり、別に文句は無いのである。
ところで母は百円盗んで帰った。自分は今これを冷やかに書くが、机の抽斗《ひきだし》を開けてみて百円の紙包が紛失しているのを知った時は「オヤ!」と叫けんだきり容易に二の句が出なかった。
「お前この抽斗を開けや為なかったか」
「否《いいえ》」
「だって先刻《さっき》入れて置いた寄附金の包みが見えないよ」
「まア!」と言って妻は真蒼《まっさお》になった。自分は狼狽《あわて》て二《ふたつ》の抽斗を抽《ぬ》き放って中を一々|験《あら》ためたけれど無いものは無い。
「先刻|母上《おっか》さんが置手紙を書くってお開けになりましたよ!」
「そうだ!」と自分は膝《ひざ》を拍《う》った時、頭から水を浴たよう。崕《がけ》を蹈外《ふみはず》そうとした刹那《せつな》の心持。
自分は暫らく茫然《ぼうぜん》として机の抽斗を眺《なが》めていたが、我知らず涙が頬《ほお》をつとうて流れる。
「余《あんま》り酷《ひど》すぎる」と一語《ひとこと》僅《わず》かに洩《もら》し得たばかり。妻は涙の泉も涸《かれ》たか唯《た》だ自分の顔を見て血の気のない唇《くちびる》をわなわなと戦《ふる》わしている。
「じゃア母上《おっか》さんが……」と言いかけるのを自分は手を振って打消し、
「黙っておいで、黙っておいで」と自分は四囲《あたり》を見廻して「これから新町まで行って来る」
「だって貴所《あなた》……」
「否《いい》や、母上《おっか》さんに会って取返えして来る。余《あんま》りだ、余《あんま》りだ。親だってこの事だけは黙っておられるものか。然しどうしてそんな浅ましい心を起したのだろう……」
自分は涙を止めることが出来ない。妻も遂に泣きだした。夫婦途方に暮れて実に泣くばかり。思えば母が三円投出したのも、親子の縁を切るなど突飛なことを怒鳴って帰ったのも皆《み》なその心が見えすく。
「直ぐ行って来る。親を盗賊に為ることは出来ない。お前心配しないで待ておいで、是非取りかえして来るから」と自分は大急ぎで仕度《したく》し、手箱から亡父《ちち》の写真を取り出して懐中した。
小春日和《こはるびより》の日曜とて、青山の通りは人出多く、大空は澄み渡り、風は砂を立てぬほどに吹き、人々行楽に忙がしい時、不幸の男よ、自分は夢地を辿《たど》る心地《ここち》で外を歩いた。自分は今もこの時を思いだすと、東京なる都会を悪《にく》む心を起さずにはいられないのである。
東宮御所の横手まで来ると突然「大河君、大河君」と呼ぶ者がある。見れば斎藤という、これも建設委員の一人。莞爾《にこにこ》しながら近づき、
「どうも相済まん、僕は全然《まるで》遊んでいて。寄附金は大概集まったろうか」
寄附金といわれて我知らずどきまぎ[#「どきまぎ」に傍点]したが「大略《あらまし》集まった」と僅《わずか》に答えて直ぐ傍《わき》を向いた。
「廻る所があるなら僕廻っても可いよ」
「難有《ありがと》う」と言ったぎり自分が躊躇《もじもじ》しているので斎藤は不審《いぶかし》そうに自分を見ていたが、「イヤ失敬」と言って去って終《しま》った。十歩を隔てて彼は振返って見たに違ない。自分は思わず頸《くび》を縮《すく》めた。
母に会ったら、何と切出そう。新町に近づくにつれて、これが心配でならぬ。母から反対《あべこべ》に怒鳴つけられたら、どうしようなど思うと、母の剣幕が目先に浮んで来て、足は自《おのず》と立縮《たちすく》む。「もしどうしても返さなかったら」の一念が起ろうとする時、自分は胸《むね》を圧《おし》つけられるような気がするのでその一念を打消し打消し歩いた。
「大河とみ」の表札。二階建、格子戸《こうしど》、見たところは小官吏《こやくにん》の住宅《すまい》らしく。女姓名《おんななまえ》だけに金貸でも為《し》そうに見える。一度は引返えして手紙で言おうかとも思ったが、何しろ一大事と、自分は思切って格子戸を潜《くぐ》った。
五月十三日[#「五月十三日」に傍点(白丸)]
勝手の間に通ってみると、母は長火鉢《ながひばち》の向うに坐っていて、可怕《こわ》い顔して自分を迎えた。鉄瓶《てつびん》には徳利が入れてある。二階は兵士どもの飲んでいる最中。然し思ったより静で、妹《いもと》お光の浮いた笑声と、これに伴う男の太い声は二人か三人。母はじろり自分を見たばかり一言も言わず、大きな声で
「お光、お銚子《ちょうし》が出来たよ」と二階の上口《あがりくち》を向いて呼んだ。「ハイ」とお光は下《おり》て来て自分を見て、
「オヤ兄様」と言ったが笑いもせず、唯だ意外という顔付き、その風《ふう》は赤いものずくめ、どう見ても居酒屋の酌婦としか受取れない。母の可怕い顔と自分の真面目《まじめ》な顔とを見比べていたが、
「それからね母上《おっか》さん、お鮨《すし》を取って下さいって」
「そう、幾価《いくら》ばかり?」
「幾価だか。可い加減で可いでしょう。それから母上さんにもお入《いで》なさいって」
「あア」と母は言って妙な眼つきでお光の顔を見たが、お光はそのまま自分の方は見向もしないで二階へ上って了《し》まった。自分は唯だ坐わったきり、母の何とか言いだすのを待っていた。
「何しに来たの」と母は突慳貪《つっけんどん》に一言《ひとこと》。
「先刻は失礼しました」と自分は出来るだけ気を落着けて左《さ》あらぬ体《てい》に言った。
「いいえどうしまして。色々心配をかけて済なかったね。帰る時お政さんに言って置いたことがあるが聞いておくれだったかね?」と何処《どこ》までも冷やかに、憎々しげに言いながら起上《たちあ》がって「私はお客様《きゃくさん》の用で出て来るが、用があるなら待っていておくれ」と台所口から出て去《い》って了った。
自分は腕組みして熟《じ》っとしていたが、我母ながらこれ実に悪婆《あくば》であるとつくづく情なく、ああまで済ましているところを見ると、言ったところで、無益《むだ》だと思うと寧《いっ》そのこと公けの沙汰《さた》にして終《しま》おうかとの気も起る。然し現在の母が子の抽斗から盗み出したので、仮令《たとい》公金であれ、子の情として訴たえる理由《わけ》にはどうしてもゆかない。訴たえることは出来ず、母からは取返えすことも出来ないなら、窃《ひそ》かに自分で弁償するより外の手段はない。八千円ばかりの金高から百円を帳面《ちょうづら》で胡魔化《ごまか》すことは、たとい自分に為し得ても、直ぐ後《あと》で発覚《ばれ》る。又自分にはさる不正なことは思ってみるだけでも身が戦《ふる》えるようだ。自分が弁償するとしてその金を自分は何処から持て来る?
思えば思うほど自分はどうして可いか解らなくなって来た。これは如何《いか》なことでも母から取返えす外はと、思い定めていると母は外から帰って来て、無言で火鉢《ひばち》の向《むこう》に坐ったが、
「どうだね、聞いておくれだったかね?」と言って長い烟管《きせる》を取上げた。
「何をですか」と自分は母の顔を見ながら言った。
「まア可いサ聞かなかったのなら。然しお前の用というのは何だね?」
自分は懐中《ふところ》から三円出して火鉢の横に置き、
「これは二円不足していますが、折角お政が作《こし》らえて置いたのですから、取って下さい、そう為《し》ませんと……」
「最早《もう》不用《いら》ないよ。だから私も二度とお前達の厄介にはなるまいし。お前達も私のようなものは親と思わないが可い。その方がお前達のお徳じゃアないか」
「母上《おっか》さん。貴女《あなた》は何故《なぜ》そんなことを急に被仰《おっしゃ》るのです」と自分は思わず涙を呑《の》んだ。
「急に言ったのが悪けりゃ謝《あや》まります。そうだったね、一年前位に言ったらお前達も幸福《しあわせ》だったのに」
何という皮肉の言葉ぞ、今の自分ならば決然《きっぱり》と、
「そうですか、宜《よろ》しゅう御座います。それじゃ御言葉に従がいまして親とも思いますまい、子とも思って下さいますな。子とお思いになると飛《とん》だお恨みを受けるような事も起るだろうと思いますから。就《つ》いては今日|私《わたくし》の机の抽斗に百円入れて置きましたそれが、貴女のお帰りになると同時に紛失したので御座いますが、如何《いか》がでしょう、もしか反古《ほぐ》と間違ってお袂《たもと》へでもお入《いれ》になりませんでしたろうか、一応お聞申します」と腹から出た声を使って、グッと急所へ一本。
「何だと親を捕えて泥棒呼わりは聞き捨てになりませんぞ」と来るところを取って押え、片頬《かたほお》に笑味《えみ》を見せて、
「これは異なこと! 親子の縁は切れてる筈《はず》でしょう。イヤお持帰りになりませんならそれで可う御座います、右の次第を届け出《いず》るばかりですから」と大きく出れば、いかな母でも半分落城するところだけれど、あの時の自分に何でこんな芝居が打てよう。
悪々《にくにく》しい皮肉を聞かされて、グッと行きづまって了い、手を拱《く》んだまま暫時《しばし》は頭も得《え》あげず、涙をほろほろこぼしていたが、
「母上《おっか》さん、それは余《あんま》りで御座います」とようように一言、母は何所《どこ》までも上手《うわて》、
「何が余《あんまり》だね、それは此方《こっち》の文句だよ。チョッ泣虫が揃《そろ》ってら。面白くもない!」
自分は形無し。又も文句に塞《つま》ったが、気を引きたてて父の写真を母の前に置きながら
「父上《おとう》さんをお伴《つ》れ申してのお願いで御座います。母上さん、何卒《どうか》……お返しを願います、それでないと私が……」と漸《やっ》との思で言いだした。母は直ぐ血相変て、
「オヤそれは何の真似《まね》だえ。お可笑《かし》なことをお為《し》だねえ。父上《おとう》さんの写真が何だというの?」
「どうかそう被仰《おっしゃ》らずに何卒《どうか》お返しを。今日お持返えりの物を……」
「先刻《さっき》からお前|可笑《おかし》なことを言うね、私お前に何を借りたえ?」
「何も申しませんから、何卒そう被仰らずにお返しを願います、それでないと私の立つ瀬がないのですから……」と言わせも果てず母は火鉢を横に膝《ひざ》を進めて、
「怪《け》しからんことを言うよ、それでは私が今日お前の所から何か持ってでも帰ったと言うのだね、聞き捨てになりませんぞ」と声を高めて乗掛《のしかか》る。
「ま、ま、そう大きな声で……」と自分はまごまご。
「大きな声がどうしたの、いくらでも大きな声を出すよ……さア今《も》一度言って御覧ん。事とすべ[#「すべ」に傍点]に依《よ》ればお光も呼んで立合わすよ」という剣幕。この時二階の笑声もぴたり止んで、下を覗《うか》がい聞耳をたてている様子。自分は狼狽《うろた》えて言葉が出ない。もじもじしていると台所口で「お待遠さま」という声がした。母は、
「お光、お光お鮨が来たよ」と呼んだ。お光は下りて来る。格子《こうし》が開いたと思うと「今日は」と入って来たのが一人の軍曹。自分をちょっと尻目《しりめ》にかけ、
「御馳走様《ごちそうさま》」とお光が運ぶ鮨の大皿を見ながら、ひょろついて尻餅《しりもち》をついて、長火鉢の横にぶっ坐った。
「おやまあ可いお色ですこと」と母は今自分を睨《にら》みつけていた眼に媚《こび》を浮べて「何処で」
「ハッハッ……それは軍事上の秘密に属します」と軍曹酒気を吐いて「お茶を一ぱい頂戴《ちょうだい》」
「今入れているじゃありませんか、性急《せわし》ない児《こ》だ」と母は湯呑《ゆのみ》に充満《いっぱい》注《つ》いでやって自分の居ることは、最早《もう》忘れたかのよう。二階から大声で、
「大塚、大塚!」
「貴所《あなた》下りてお出《い》でな
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