でになるんですから」とお政は最早《もう》泣き声になっている。
「然し実際|明日《あした》母上《おっかさん》が見えたって渡す金が無いじゃアないか」
「私が明日のお昼までにどうにか致します」
「どうにかって、お前に出来る位なら私にだって何とか為《な》りそうなものだが、実際始末にいけないのじゃないか」
「今度だけ私にまかして下さい、何とか致しますから」と言われて自分は強《しい》て争わず、めいり[#「めいり」に傍点]込んだ気を引きたてて改築事務を少しばかり執《とっ》て床に就《つ》いた。
五月七日[#「五月七日」に傍点(白丸)]
一寝入したかと思うと、フト眼が覚《さ》めた、眼が覚めたのではなく可怕《おそろし》い力が闇《やみ》の底から手を伸して揺《ゆ》り起したのである。
その頃学校改築のことで自分はその委員長。自分の外に六名の委員が居ても多くは有名無実で、本気で世話を焼くものは自分の外に升屋の老人ばかり。予算から寄附金のことまで自分が先に立って苦労する。敷地の買上、その代価《ねだん》の交渉、受負師との掛引、割当てた寄附金の取立、現金の始末まで自分に為《さ》せられるので、自然と算盤《そろばん》が机の上に置れ通し。持前の性分、間に合わして置くことが出来ず、朝から寝るまで心配の絶えないところへ、母と妹《いもと》とが堕落の件。殊《こと》に又ぞろ母からの無理な申込で頭を痛めた故《せい》か、その夜は寝ぐるしく、怪しい夢ばかり見て我ながら眠っているのか、覚めているのか判然《わから》ぬ位であった。
何か物音が為《し》たと思うと眼が覚めた。さては盗賊《どろぼう》と半ば身体《からだ》を起してきょろきょろと四辺《あたり》を見廻したが、森《しん》としてその様子もない。夢であったか現《うつつ》であったか、頭が錯乱しているので判然《はっきり》しない。
言うに言われぬ恐怖《おそろし》さが身内に漲《みな》ぎってどうしてもそのまま眠ることが出来ないので、思い切って起上《たちあ》がった。
次の八畳の間の間《あい》の襖《ふすま》は故意《わざ》と一枚開けてあるが、豆洋燈《まめランプ》の火はその入口《いりくち》までも達《とど》かず、中は真闇《まっくら》。自分の寝ている六畳の間すら煤《すす》けた天井の影暗く被《おお》い、靄霧《もや》でもかかったように思われた。
妻のお政はすやすやと寝入り、その傍《そば》に二歳《ふたつ》になる助《たすく》がその顔を小枕《こまくら》に押着けて愛らしい手を母の腮《あご》の下に遠慮なく突込んでいる。お政の顔色の悪さ。さなきだに蒼《あお》ざめて血色|悪《あ》しき顔の夜目には死人《しびと》かと怪しまれるばかり。剰《あまつさ》え髪は乱れて頬《ほお》にかかり、頬の肉やや落ちて、身体《からだ》の健《すこや》かならぬと心に苦労多きとを示している。自分は音を立てぬようにその枕元を歩いて、長火鉢《ながひばち》の上なる豆洋燈を取上げた。
暫時《しばらく》聴耳《ききみみ》を聳《たて》て何を聞くともなく突立っていたのは、猶《な》お八畳の間を見分する必要が有るかと疑がっていたので。しかし確に箪笥《たんす》を開ける音がした、障子をするすると開ける音を聞いた、夢か現《うつつ》かともかくと八畳の間に忍足で入って見たが、別に異変《かわり》はない。縁端《えんがわ》から、台所に出て真闇の中をそっと覗《のぞ》くと、臭気《におい》のある冷たい空気が気味悪く顔を掠《かす》めた。敷居に立って豆洋燈を高くかかげて真闇の隅々《すみずみ》を熟《じっ》と見ていたが、竈《かまど》の横にかくれて黒い風呂敷包が半分出ているのに目が着いた。不審に思い、中を開けて見ると現われたのが一筋の女帯。
驚くまいことか、これがお政が外出《そとゆき》の唯《たっ》た一本の帯、升屋の老人が特に祝わってくれた品である。何故《なぜ》これが此所《ここ》に隠してあるのだろう。
自分の寝静まるのを待って、お政はひそかに箪笥からこの帯を引出し、明朝《あす》早くこれを質屋に持込んで母への金を作る積《つもり》と思い当った時、自分は我知らず涙が頬を流れるのを拭《ふ》き得なかった。
自分はそのまま帯を風呂敷に包んで元の所に置き、寝間に還《かえ》って長火鉢の前に坐わり烟草《たばこ》を吹かしながら物思に沈んだ。自分は果してあの母の実子だろうかというような怪しい惨《いた》ましい考が起って来る。現に自分の気性と母及び妹《いもと》の気象とは全然《まるで》異《ちが》っている。然し父には十の年に別れたのであるから、父の気象に自分が似て生れたということも自分には解らない。かすかに覚えているところでは父は柔和《やさし》い方《かた》で、荒々しく母や自分などを叱《しか》ったことはなかった。母に叱られて柱に縛《しば》りつけられたのを父が解てくれたことを覚えている。その時母が父にも怒《いかり》を移して慳貪《けんどん》に口をきいたことをも思い出し、父のこと母のこと、それからそれへと思を聯《つら》ね、果は親子の愛、兄弟の愛、夫婦の愛などいうことにまで考え込んで、これまでに知らない深い人情の秘密に触れたような気にもなった。
お政は痛ましく助《たすく》は可愛く、父上は恋しく、懐《なつ》かしく、母と妹《いもと》は悪《にく》くもあり、痛ましくもあり、子供の時など思い起しては恋しくもあり、突然寄附金の事を思いだしては心配で堪《たま》らず、運動場に敷く小砂利《こじゃり》のことまで考えだし、頭はぐらぐらして気は遠くなり、それでいて神経は何処《どこか》に焦焦《じりじり》した気味がある……
嗚呼《ああ》! 何故あの時自分は酒を呑《のま》なかったろう。今は舌打して飲む酒、呑ば酔《え》い、酔《え》えば楽しいこの酒を何故飲なかったろう。
五月八日[#「五月八日」に傍点(白丸)]
明くれば十月二十五日自分に取って大厄日。
自分は朝起きて、日曜日のことゆえ朝食《あさめし》も急がず、小児《こども》を抱て庭に出《い》で、其処《そこ》らをぶらぶら散歩しながら考えた、帯の事を自分から言い出して止《と》めようかと。
然し止めてみたところで別に金の工面の出来るでもなし、さりとて断然母に謝絶することは妻《さい》の断《たっ》て止めるところでもあるし。つまり自分は知らぬ顔をしていて妻《さい》の為すがままに任かすことに思い定めた。
朝食《あさめし》を終るや直ぐ机に向って改築事務を執《と》っていると、升屋の老人、生垣《いけがき》の外から声をかけた。
「お早う御座い」と言いつつ縁先に廻って「朝《あさっ》ぱらから御勉強だね」
「折角の日曜もこの頃はつぶれ[#「つぶれ」傍点]で御座います」
「ハハハハッ何に今に遊ばれるよ、学校でも立派に出来あがったところで、しんみり[#「しんみり」に傍点]と戦いたいものだ、私は今からそれを楽みに為《し》ている」
座に着いて老人は烟管《きせる》を取出した。この老人と自分、外に村の者、町の者、出張所の代診、派出所の巡査など五六名の者は笊碁《ざるご》の仲間で、殊《こと》に自分と升屋とは暇さえあれば気永な勝負を争って楽んでいたのが、改築の騒から此方《こっち》、外の者はともかく、自分は殆《ほとん》ど何より嗜好《すき》、唯一の道楽である碁すら打ち得なかったのである。
「来月一ぱいは打てそうもありません」
「その代り冬休という奴《やつ》が直ぐ前に控えていますからな。左右に火鉢、甘《うま》い茶を飲みながら打つ楽《たのしみ》は又別だ」といいつつ老人は懐中《ふところ》から新聞を一枚出して、急に真顔《まがお》になり
「ちょっとこれを御覧」
披《ひろ》げて二面の電報欄を指した。見ると或地方で小学校新築落成式を挙げし当日、廊《ろうか》の欄《てすり》が倒れて四五十人の児童庭に顛落《てんらく》し重傷者二名、軽傷者三十名との珍事の報道である。
「大変ですね。どうしたと言うんでしょう?」
「だから私が言わんことじゃあない。その通りだ、安普請《やすぶしん》をするとその通りだ。原などは余《あんま》り経費がかかり過ぎるなんて理窟《りくつ》を並べたが、こういう実例が上ってみると文句はあるまい。全体大切な児童《こども》を幾百人《なんびゃくにん》と集《よせ》るのだもの、丈夫な上に丈夫に建るのが当然《あたりまえ》だ。今日一つ原に会ってこの新聞を見せてやらなければならん」
「無闇《むやみ》な事も出来ますまいが、今度の設計なら決して高い予算じゃ御座いませんよ、何にしろあの建坪ですもの、八千円なら安い位なものです」
「いやその安価《やすい》のが私ゃ気に喰《く》わんのだが、先ず御互の議論が通ってあの予算で行くのだから、そう安《やすっ》ぽい直《す》ぐ欄《てすり》の倒れるような険呑《けんのん》なものは出来上らんと思うがね」と言って気を更《か》え、「其処《そこ》で寄附金じゃが未《ま》だ大《おおき》な口が二三《ふたつみつ》残ってはいないかね?」
「未だ三口ほど残っています」
「それじゃア私がこれから廻ってみよう」
「そうですか、それでは大井|様《さん》を願います。今日渡すから人をよこしてくれろと云って来ましたから」
「百円だったね?」と老人は念を推した。
「そうです」
其処《そこ》で老人は程遠からぬ華族大井家の方へと廻るとて出行《いでゆ》きたるに引きちがえてお政は外から帰って来た。老人と自分とが話している間《ま》に質屋に行って来たのである。
「金は出来たろうか」と自分は何処までも知らぬ顔で聞いた。妻《さい》は、
「出来ました」と言いつつ小児《こども》を背から下して膝に乗せた。
「どうして出来たのだ」と自分は問わざるを得なくなった。
「どうしてでも可《い》いじゃアありませんか、私《わたくし》が……」と言いかけて淋《さび》しげな笑を洩《もら》した。
「そうさ、お前に任したのだから……ところで母上《おっか》さんが見えたら最早《もう》下宿屋は止《よ》して一所になって下さいと言ってみようじゃないか」
「言ったところで無益《むだ》で御座いますよ」
「無益ということもあるまい。熱心に説けば……」
「無益ですよ、却《かえ》って気を悪くなさるばかりですよ」
「それは多少《いくら》か気を悪くなさるだろうけれど、言わないで置けばこの後どんなことに成りゆくかも知れないよ」
「そうですねえ……然し兵隊さんとどうとかいうようなことは被仰《おっしゃら》んほうが可《よ》う御座いますよ」
「まさかそんなことまでもは言われも為《す》まいけれど」
一時間立たぬうちに升屋の老人は帰って来て、
「甘《うま》く行ったよ」と座に着いた。
「どうも御苦労様でした」
「ハイ確かに百円。渡しましたよ。験《あら》ためて下さい」と紙包を自分の前に。
「今日は日曜で銀行がだめ[#「だめ」に傍点]ですから貴所《あなた》の宅《うち》に預かって下さいませんか。私の家は用心が悪う御座いますから」と自分が言うを老人は笑って打消し、
「大丈夫だよ、今夜だけだもの。私宅《うち》だって金庫を備えつけて置くほどの酒屋じゃアなし、ハッハッハッハッハッハッ。取られる時になりゃ私の処《とこ》だって同じだ。大井|様《さん》は済んだとして、後《あと》の二軒は誰が行く筈《はず》になっています」
「午後《ひるから》私が廻る積りです」
升屋の老人は去り、自分は百円の紙包を机の抽斗《ひきだし》に入れた。
五月九日[#「五月九日」に傍点(白丸)]
自分は五年|前《ぜん》の事を書いているのである。十月二十五日の事を書いているのである。厭《いや》になって了った。書きたくない。
けれども書く、酒を飲みながら書く。この頃島の若いものと一しょに稽古《けいこ》をしている義太夫《ぎだゆう》。そうだ『玉三《たまさん》』でも唸《うな》りながら書こう。面白い!
――昼飯《ひるめし》を済まして、自分は外出《でか》けようとするところへ母が来た。母が来たら自分の帰るまで待って貰《もら》う筈にして置いたところへ。
色の浅黒い、眼に剣のある、一見して一癖あるべき面魂《つらだましい》というのが母の人相。背《せい》
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