自分は懐《ふところ》に片手を入れて一件を握っていたが未《ま》だ夢の醒《さ》めきらぬ心地がして茫然《ぼうぜん》としている。
「御飯は?」
「食って来た」
「母上《おっか》さんの処で?」
「あア」
「大変お顔の色が悪う御座いますよ」と妻は自分の顔を見つめて言う。
「余り心配したせいだろう」
「直ぐお寝《やす》みなさいな」
「イヤ帳簿の調査《しらべ》もあるからお前先へ寝ておくれ」と言って自分は八畳の間に入り机に向った。然し妻は容易に寝そうもないので、
「早くお寝みというに」
自分はこれまで、これほど角《かど》のある言葉すら妻《さい》に向って発したことはないのである。妻は不審そうに自分の方を見ているようであったが、その中《うち》床に就てしまった。自分は一度|殊更《ことさら》に火鉢の傍に行って烟草《たばこ》を吸って、間《あい》の襖《ふすま》を閉《し》めきって、漸《ようや》く秘密の左右を得た。
懐からそっと[#「そっと」に傍点]盗すむようにして紙幣《さつ》の束を出したが、その様子は母が机の抽斗《ひきだし》から、紙幣《さつ》の紙包を出したのと同じであったろう。
一円紙幣で百枚! 全然《まるで》
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