年前の大河では御座らぬ。
 ああ今は気楽である。この島や島人《しまびと》はすっかり自分の気に入って了《しま》った。瀬戸内にこんな島があって、自分のような男を、ともかくも呑気《のんき》に過さしてくれるかと思うと、正《まさ》にこれ夢物語の一章一節、と言いたくなる。
 酒を呑んで書くと、少々手がふるえて困る、然し酒を呑まないで書くと心がふるえるかも知れない。「ああ気の弱い男!」何処《どこ》に自分が変っている、やはりこれが自分の本音《ほんね》だろう。
 可愛い可愛いお露《つゆ》が遊びに来たから、今日はこれで筆を投げる。

 五月四日[#「五月四日」に傍点(白丸)]
 自分が升屋の老人から百円受取って机の抽斗《ひきだし》に納《しま》ったのは忘れもせぬ十月二十五日。事の初《はじまり》がこの日で、その後自分はこの日に逢《あ》うごとに頸《くび》を縮めて眼をつぶる。なるべくこの日の事を思い出さないようにしていたが、今では平気なもの。
 一件がありありと眼の先に浮んで来る。
 あの頃の自分は真面目《まじめ》なもので、酒は飲めても飲まぬように、謹厳正直《きんげんせいちょく》、いやはや四角張《しかくばっ》た男
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