自分の性質には思い切って人に逆らうことの出来る、ピンとしたところはないので、心では思っても行《おこない》に出すことの出来ない場合が幾多《いくら》もある。
 ああ哀れ気の毒千万なる男よ! 母の為め妹《いもと》の為めに可《よ》くないと思った下宿の件も遂には止め終《おお》せなかったも当然。母と妹《いもと》の浅ましい堕落を知りつつも思い切って言いだし得ず、言いだしても争そうことの出来なかったも当然。苦るしい中を算段して、いやいやながらも母と妹《いもと》とに淫酒の料をささげたもこれ又当然。
 二十四日の晩であった、母から手紙が来て、明二十五日の午後まかり出るから金五円至急に調達《ちょうだつ》せよと申込んで来た時、自分は思わず吐息をついて長火鉢《ながひばち》の前に坐ったまま拱手《うでぐみ》をして首を垂《た》れた。
「どうなさいました?」と病身な妻《さい》は驚いて問うた。
「これを御覧」と自分は手紙を妻《さい》に渡した。妻《さい》は見ていたが、これも黙って吐息したまま手紙を下に置く。
「何故《なぜ》こんな無理ばかり言って来るだろう」
「そうですね……」
「最早《もう》一文なしだろう?」
「一円ばかし有ります」
「有ったってそれを渡したら宅《うち》で困って了う。可いよ、明日《あした》母上《おっかさん》が来たら私がきっぱりお謝絶《ことわり》するから。そうそうは私達だって困らアね。それも今日《こんにち》母上《おっかさん》や妹《いもと》の露命をつなぐ為めとか何とか別に立派な費《つか》い途《みち》でも有るのなら、借金してだって、衣類《きもの》を質草に為《し》たって五円や三円位なら私の力にても出来《でか》して上げるけれど、兵隊に貢ぐのやら訳もわからない金だもの。可《よ》いよ、明日《あした》こそ私しが思いきり言うから、それで聴《き》かないならどうにでも勝手になさいと言ってやるから」
「言うのはお止《よ》しなさいよ」
「何故や、言うよ、明日こそ言うよ」
「だってね母上《おっかさん》のことだから又大きな声をして必定《きっと》お怒鳴《どなり》になるから、近処《きんじょ》へ聞えても外聞が悪いし、それにね、貴所《あなた》が思い切たことを被仰《おっしゃ》ると直ぐ私が恨まれますから。それでなくても私が気に喰《く》わんから一所に居たくても為方なしに別居して嫌《いや》な下宿屋までしているんだって言いふらしておい
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