のである。であるから賊になった上で又もや悶《もが》き初めるのは当然である。総《すべ》て自分のような男は皆な同じ行き方をするので、運命といえば運命。蛙《かえる》が何時《いつ》までも蛙であると同じ意味の運命。別に不思議はない。
 良心とかいう者が次第に頭を擡《もた》げて来た。そして何時も身に着けている鍵が気になって堪《たま》らなくなって来た。
 殊《こと》に自分は児童の教員、又た倫理を受持っているので常に忠孝仁義を説かねばならず、善悪邪正を説かねばならず、言行一致が大切じゃと真面目《まじめ》な顔で説かねばならず、その度毎《たびごと》に怪しく心が騒ぐ。生徒の質問の中で、折り折り胸を刺れるようなのがある。中には自分の秘密を知ってあんな質問をするのではあるまいかと疑い、思わず生徒の面《かお》を見て直ぐ我顔を負向《そむ》けることもある。或日の事、十歳《とお》ばかりの児が来て、
「校長先生、岩崎さんが私《わたくし》の鉛筆を拾って返しません」と訴たえて来た。拾ったとか、失《なくな》ったとか、落したとかいう事は多数の児童《こども》を集めていることゆえ常に有り勝で怪むに足《たら》ないのが、今突然この訴えに接して、自分はドキリ胸にこたえた。
「貴所《あなた》が気をつけんから落したのだ、待ておいで、今岩崎を呼ぶから」と言ったのは全然《まるで》これまでの自分にないことで、児童は喫驚《びっくり》して自分の顔を見た。
 岩崎という十二歳になる児童を呼んで「あなたは鉛筆を拾いはしなかったか」と聞くと顔を赤らめてもじもじしている。
「拾ったでしょう。他人《ひと》の者を拾ったら直ぐ私の所へ持て出るのが当前《あたりまえ》だのにそれを自分の者に為《す》るということは盗んだも同じことで、甚《はなは》だ善くないことですよ。その鉛筆を直ぐこの人にお返しなさい」と厳《おごそ》かに命《いい》つけた。
 そんならば何故《なぜ》自分は他人《ひと》の革包《かばん》を自分の箪笥に隠して置くのであるか。
 自分はその日校務を了《おわ》ると直ぐ宅に帰り、一室《ひとま》に屈居《かがん》で、悶《もが》き苦しんだ。自首して出ようかとも考がえ、それとも学校の方を辞職して了《しま》うかとも考がえた。この二《ふたつ》を撰《えら》ぶ上に就いて更に又苦しんだけれど、いずれとも決心することが出来ない。自首した後《あと》での妻子のことを思い、辞職
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