、升屋《ますや》の老人のよろこぶ顔までが目に浮んで来る。
 ああ百円あったらなアと思うと、これまで金銭《かね》のことなどさまで自分を悩ましたことのないのが、今更の如くその怪しい、恐ろしい力を感じて来る。ただ百円、その金銭《かね》さえあれば、母も盗賊にはなるまいものを。よし母は盗みを為たところで、自分にその金銭《かね》が有るならば今の場合、自分等夫婦は全く助かるものをなど考がえると、金銭《かね》という者が欲くもあり、悪《にく》くもあり、同時にその金銭《かね》のために少しも悩まされないで、長閑《のど》かにこの世を送っている者が羨《うらや》ましくもなり、又実に憎々しくもなる。総《すべ》てこれ等の苦々《にがにが》しい情は、これまで勤勉にして信用厚き小学教員、大河今蔵の心には起ったことはないので、ああ金銭《かね》が欲しいなアと思わず口に出して、熟《じっ》と暗い森の奥を見つめた。
 するとがやがやと男女|打雑《うちま》じって、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]ながら上《のぼ》って来るものがある。
「淋《さび》しいじゃ有りませぬか、帰りましょうよ。最早《もう》こんな処《ところ》つまりませんわ」という女の声は確かにお光。自分はぎょっとして起あがろうとしたが、直ぐ其処《そこ》に近づいて来たのでそのまま身動きもせず様子を窺《うか》がっていた。人々は全たく此処《ここ》に人あることを気がつかぬらしい。お光が居れば母もと覗《うか》がったが女はお光一人、男は二人。
「ねえ最早《もう》帰りましょうよ、母上《おっか》さんが待っているから」と甘ったるい声。
「何故母上さんは一所に出なかったのだろう、君知らんかね」と一人の男が言うと、一人
「頭が痛むとか言っていたっけ」というや三人急に何か小さな声で囁《ささや》き合ったが、同時《いちど》にどっと笑い、一人が「ヨイショー」と叫けんで手を拍った。
 面白ろうない事が至るところ、自分に着纏《つきまと》って来る。三人が行き過ぐるや自分は舌打して起ちあがり、そこそこと山を下りて表町に出た。
 この上は明日中に何とか処置を着ける積り、一方には手紙で母に今一度十分訴たえてみ、一方には愈々《いよいよ》という最後の処置はどうするか妻《さい》とも能《よ》く相談しようと、進まぬながらも東宮御所の横手まで来て、土手について右に廻り青山の原に出た。原を横ぎる方が近いのである。
 原を
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