さいよ」と母が呼ぶ。大塚軍曹は上を向いて、
「お光さん、お光さん!」
 外所《そと》は豆腐屋の売声高く夕暮近い往来の気勢《けはい》。とてもこの様子ではと自分は急に起て帰ろうとすると、母は柔和《やさし》い声で、
「最早お帰りかえ。まア可いじゃアないか。そんなら又お来《い》でよ」と軍曹の前を作ろった。
 外へ出たが直ぐ帰えることも出来ず、さりとて人に相談すべき事ではなく、身に降りかかった災難を今更の如く悲しんで、気抜けした人のように当もなく歩いて溜池《ためいけ》の傍《そば》まで来た。
 全たく思案に暮れたが、然し何とか思案を定めなければならぬ。日は暮れかかり夕飯《ゆうめし》時になったけれど何を食《くお》うとも思わない。
 ふと山王台の森に烏《からす》の群れ集まるのを見て、暫《しばら》く彼処《かしこ》のベンチに倚《よ》って静かに工夫しようと日吉橋《ひよしばし》を渡った。
 哀れ気の毒な先生! 「見すぼらしげな後影」と言いたくなる。酒、酒、何であの時、蕎麦屋《そばや》にでも飛込んで、景気よく一二本も倒さなかったのだろう。

 五月十四日[#「五月十四日」に傍点(白丸)]
 寂寥《せきりょう》として人気《ひとげ》なき森蔭のベンチに倚ったまま、何時間自分は動かなかったろう。日は全く暮れて四囲《あたり》は真暗になったけれど、少しも気がつかず、ただ腕組して折り折り嘆息《ためいき》を洩《もら》すばかり、ひたすら物思に沈んでいたのである。
 実地に就ての益《やく》に立つ考案《かんがえ》は出ないで、こうなると種々な空想を描いては打壊《ぶちこ》わし、又た描く。空想から空想、枝から枝が生《は》え、殆《ほと》んど止度《とめど》がない。
 痴情の果から母とお光が軍曹に殺ろされる。と一つ思い浮かべるとその悲劇の有様が目の先に浮んで来て、母やお光が血だらけになって逃げ廻る様がありありと見える。今蔵々々と母は逃げながら自分を呼ぶ、自分は飛び込んで母を助けようとすると、一人の兵が自分を捉《とら》えて動かさない……アッと思うとこの空想が破れる。
 自分が百円持って銀行に預けに行く途中で、掏児《すり》に取られた体《てい》にして届け出よう、そう為ようと考がえた、すると嫌疑《けんぎ》が自分にかかり、自分は拘引される、お政と助は拘引中に病死するなど又々浅ましい方に空想が移つる。
 校舎落成のこと、その落成式の光景
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