郊外
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)時田《ときだ》先生

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)第一|小供《こども》が

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#始め二重括弧、1−2−54]
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       ※[#始め二重括弧、1−2−54]一※[#終わり二重括弧、1−2−55]

 時田《ときだ》先生、名は立派なれど村立《そんりつ》小学校の教員である、それも四角な顔の、太い眉《まゆ》の、大きい口の、骨格のたくましい、背《せい》の低い、言うまでもなく若い女などにはあまり好かれない方の男。
 そのくせ生徒にも父兄にも村長にもきわめて評判のよいのは、どこか言うに言われぬ優しいところがあるので、口数の少ない代わりには嘘《うそ》を言うことのできない性分、それは目でわかる、いつも笑みを含んでいるので。
 嫁を世話をしよう一人《ひとり》いいのがあると勧めた者は村長ばかりではない、しかしまじめな挨拶《あいさつ》をしたことなく、今年三十一で下宿住まい、このごろは人もこれを怪しまないほどになった。
 梅《むめ》ちゃん、先生の下宿はこの娘のいる家《うち》の、別室《はなれ》の中《ちゅう》二階である。下は物置で、土間《どま》からすぐ梯子段《はしごだん》が付いている、八畳一間ぎり、食事は運んで上げましょというのを、それには及ばないと、母屋《おもや》に食べに行《い》く、大概はみんなと一同《いっしょ》に膳《ぜん》を並べて食うので、何を食べささりょうと頓着《とんちゃく》しない。
 梅ちゃんは十歳《とお》の年から世話になったが、卒業しないで退校《ひい》ても先生別に止めもしなかった、今は弟の時坊が尋常二年で、先生の厄介になっている、宅《うち》へ帰ると甘えてしかたがないが学校では畏《おそ》れている。
 先生の中二階からはその屋根が少しばかりしか見えないが音はよく聞こえる水車《すいしゃ》、そこに幸《こう》ちゃんという息子《むすこ》がある、これも先生の厄介になッた一人で、卒業してから先生の宅《うち》へ夜分《やぶん》外史を習いに来たが今はよして水車の方を働いている、もっとも水車といっても都の近在だけに山国の小さな小屋とは一つにならない。月に十四、五両も上がる臼《うす》が幾個《いくつ》とかあって米を運ぶ車を曳《ひ》く馬の六、七頭も飼ッてある。たいしたものだと梅ちゃんの母親などはしょっちゅううらやんでいるくらいで。
『そんならこちらでも水車をやったらどうだろう、』と先生に似合わないことをある時まじめで言いだした。
『幸《こう》ちゃんとこのようにですか、だってあれは株ですものう、水車がそういつだってできるもんならたれだってやりますわ。』おかみさんは情けなそうに笑って言った。
『なるほど場処がないからねエ。』先生はまじめに感心してそれで水車の話はやんで幸ちゃんのうわさに移ッた。
 お神《かみ》さんはしきりと幸ちゃんをほめて、実はこれは毎度のことであるが、そして今度の継母《ままはは》はどうやら人が悪そうだからきっと、幸ちゃんにはつらく当たるだろうと言ッた。
『いい歳《とし》をしてもう今度で三度めですよ、第一|小供《こども》がかあいそうでさア。』
『三度め!』先生は二度めとばかり思ッていたのである。
『もっとも幸ちゃんの母親《おふくろ》は亡《な》くなッたんですけれども。』
 この時、のそり挨拶《あいさつ》なしに土間に現われたのが二十四、五の、小づくりな色の浅ぐろい、目元の優しい男。
『オヤ幸ちゃんが! 今お前さんのうわさをしていたのよ。』実はお神さん少し驚いてまごついたのである。
『先生今日は。』
『この二、三日見えないようであったね。』
『相変わらず忙しいもんですから。』
『マアお上がんなさいな、今日《こんにち》はどちらへ。』お神さんは幸吉《こうきち》の衣装《なり》に目をつけて言った。
『神田《かんだ》の叔父《おじ》の処へちょっと行って来ました、先生今晩お宅でしょうか。』幸吉の言葉は何となく沈んでいる。
『在宅《い》るとも、何《なん》か用だろうか。』
『ナニ別に、ただ少しばかし……』
『今夜|宅《うち》で浪花節《なにわぶし》をやらすはずだから幸ちゃんもおいでなさいな、そらいつかの梅竜《ばいりゅう》』お神さんは卒然言葉をはさんだ。
『そうですか、来ましょう、それじゃあまた晩に』と言って幸吉は帰ってしまった。
『幸ちゃん今日《きょう》はどうかしているよ』とお神さんは言ったが、先生別に返事をしないで立て膝《ひざ》をしながらお神さんの手元をながめていた。お神さんは時田のシャツの破綻《ほころび》を繕っている。
 夜食が済むと座敷を取り片|付《づ》けるので母屋《おもや》の方は騒いでいたが、それが済むと長屋の者や近所の者がそろそろ集まって来て、がやがやしゃべるのが聞こえる。日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈火《ひ》も点《つ》けないで片足を敷居の上に延ばし、柱に倚《よ》りかかりながら、茫然《ぼんやり》外面《そと》をながめている。
『先生!』梅ちゃんの声らしい、時田は黙って返事をしない。『オヤいないのだよ』と去《い》ってしまった、それから五分も経《た》ったか、その間身動きもしないで東の森をながめていたが、月の光がちらちらともれて来たのを見て、彼は悠然《やおら》立って着衣《きもの》の前を丁寧に合わして、床《とこ》に放棄《ほう》ってあった鳥打ち帽を取るや、すたこらと梯子段《はしごだん》を下《お》りた。
 生垣《いけがき》を回ると突然《だしぬけ》に出っくわしたのがお梅である。お梅はきゃんな声で
『知らないよ。いいジャアないかあたしがだれのうわさをしようがお前さんの関《かま》った事ジャアないよ、ねエ先生!』
 時田は驚いて木《こ》の下闇《したやみ》を見ると、一人の男が立っていたが、ツイと長屋の裏の方へ消えてしまった。
『だれ。』時田は訊《たず》ねた。
『源公の野郎《やろう》、ほんとにこの節は生意気になったよ。先生散歩?』お梅は時田のそばに寄って顔をのぞくようにして見た。
『あの幸ちゃんが来たら散歩に行ったって、そしてすぐ帰るからッて言っておくれ、』と時田は門を出た。お梅は後《あと》について来て、
『すぐお帰んなさいナもう梅竜《ばいりゅう》が来ましたから。あらお月さま!』お梅は立ち止まった。時田は橋を渡って野の方へと行ってしまった。
 二時間も経《た》ったろうか、時田の帰って来たのは。月影にすかして見ると橋の上に立っているのはお梅である。
『先生どこを歩いていました今まで、幸ちゃんがさっきから待っていますよ。』
『梅ちゃんここで何してたの。』
『先生を待っていました、幸ちゃんの用ッて何でしょう。』
『何だか知らない。何だってよいジャあないか。』
『だって何だか沈鬱《ふさ》いでいるようだから……もしかと思って。』
『ああ少し寒くなって来た。』
 二人《ふたり》は連れだって中二階の前まで来たが、母屋《おもや》では浪花節《なにわぶし》の二切《ふたき》りめで、大夫《たゆう》の声がするばかり、みんな耳を澄ましていると見えて粛然《しん》としている。
『幸ちゃんに今帰ったからッて、そ言っておくれ、』と時田は庭の耳門《くぐり》へ入《はい》った、お梅はばたばたと母屋《おもや》の方へ駆《か》け出して土間へそっと入ると、幸吉が土間の入口に立っている。
『帰って?』幸吉は低い声で言った。
『今帰ってよ、用が済んだらまたお寄んなさいナ。』お梅の声もささやくよう。
『ありがとう。』幸吉は急いで中二階の方へ行った、しかし頭を垂《た》れたまま。お梅は座敷の隅《すみ》の方の薄暗い所に蹲居《つくなん》で浪花節を聞いていたが、みんなが笑う時でも笑顔《えがお》一つしなかった。二切りめが済むと座敷はにわかににぎやかになって、煙草《たばこ》を吸うやら便所に立つやら大騒ぎ。
『お梅。』母親《おふくろ》がきょろきょろと見回すと、
『なに。』お梅は大きな声で返事をした。
『どこにいたのさっきから。』
『ここで聴《き》いていたのよ、そして頭が痛くって……』と顔をしかめて頭をこつこつと軽くたたく。
『奥へ行って、寝《やす》みな、寝てたッて聞こえるよ。』母親《おふくろ》は心配そうに言う。それでもお梅は返事をしないでそのまま蹲居《つくなん》でいた。そのうち三切《みき》りめが初まるとお梅はしばらく聴いていたが、そッと立って土間へ下りると母親《おふくろ》が見つけて、低い声で、
『奥でお寝《やす》みな。』半ばしかるように言った。お梅は泣き出しそうな顔をして頭を振って外面《そと》へ出た。月は冴《さ》えに冴え、まるで秋かとも思われるよう。庭木の影がはっきりと地に印《いん》している。足を爪立《つまだ》てるようにして中二階の前の生垣《いけがき》のそばまで来て、垣根|越《ご》しに上を見あげた。二階はしんとしている。この時|母屋《おもや》でドッと笑い声がした。お梅はいまいましそうに舌うちをして、ほんとにいつまでやってるんだろうとつぶやきながら道へ出た。橋の上で話し声が聞こえるようだから、もしかと思って来ると先生一人、欄干に倚《よ》っかかッて空を仰いでいた。
『オヤお一人?』
『あア。』気のない返事。
『幸ちゃん帰りましたの?』お梅も欄干に倚《よ》って時田の顔をじっと見ている。
『今帰ったよ、』と大あくびをして『梅ちゃんどうして浪花節聴かないの、僕一つ聴いて来ようか。』
『およしなさいよつまらない! あたし聴いてたけど頭が痛くなって逃げ出したの。』
 二人はしばし黙っていた。水車へ水を取るので橋から少し下流に井堰《いせき》がある、そのため水がよどんで細長い池のようになっている、その岸は雑木《ぞうき》が茂って水の上に差し出ているのが暗い影を映しまた月の光が落ちているところは鏡のよう。たぶん羽虫《はむし》が飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消えてはまた現われている、お梅はじっと水を見ていたが、ついに
『幸ちゃんの話は何でした。』
『神田の叔父の方へしばらく往《い》っていたいがどうしたもんだろうと相談に来たのサ。』
『先生何と言ってやりました。』お梅は時田の顔を見て言ったがその声は少し震えていた、しかし時田はそんなことには気がつかないかして、すこぶる平気で、
『なるべくは家《うち》にいた方がよかろう、そうしないとなおの事|継母《おふくろ》との間がむずかしくなるからッて、留めてやった、かあいそうに泣いていたよ。』
『泣いて? まアかあいそうに。』お梅は涙ぐんで黙ってしまった。それも時田には気が付かない、
『なんでも詳しい事は聞かなんだが、今度の継母《おふくろ》に娘があってそれが海軍少将とかに奉公している、そいつを幸ちゃんの嫁にしたいと思っているらしい、幸ちゃんはそれがいやでたまらない、それを継母《おふくろ》が感づいてつらく当たるらしい、だから幸ちゃんの身になって見るとたまらないサ。』
『そうなのよ、わたしもその事はちょっと聞いてよ、そうなのよ、だってあんまりそれは無理だわ……』まだ何か言いそうな時、突然橋の上に通り掛かった男、お梅の顔をのぞき込んで
『オヤ梅ちゃん、今晩は、』と意味ありげに声を掛けて行き過ぎた。橋を渡ったと思うとちょっと振り向いて、
『忘れていた、幸ちゃんによろしく。』
『知らないわ、お菊さんが待ってるよ。』
『ハハハハありがとう。』いううち姿が見えなくなった。
『お菊さんて踏切の八百屋《やおや》の娘だろうか。』時田は訊《たず》ねた。お梅はうなずいたぎり黙っていた。

       ※[#始め二重括弧、1−2−54]二※[#終わり二重括弧、1−2−55]

 この日は近ごろ珍しいいい天気であったが、次の日は梅雨《つゆ》前のこととて、朝から空模様怪しく、午後はじめじめ降りだした。普通の人ならせっかくの日曜をめちゃめちゃにしてしまったと不平を並べるところだが、時田先生、全く無頓着《むと
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