最初はただの教員から初めて十何年という長い間、汲々乎《きゅうきゅうこ》として勤めお互いの朋輩《ほうばい》にはもう大尉《たいい》になッた奴《やつ》もいれば法学士で判事になった奴もいるのを知らん顔でうらやましいとも思わず平気で自分の職分を守っている。もちろんこれは君の性分にもよるだろう、しかしそれはどちらでもいい、ともかく一心専念にやっているという事が僕は君の今日成功している所以《ゆえん》だと信ずる、成功とも! 教育家としてこの上の成功はないサ。父兄からは十二分の信用と尊敬とを得て何か込み入ったことはみんな君のところへ相談に来て君の判断を仰ぐ。僕は今の教育家にこういう例はあまりなかろうと思う。そこで僕は思った、僕に天才があろうがなかろうが、成功しようがしなかろうがそんな事は今顧みるに当たらない何でもこのままで一心不乱にやればいいんだ、というふうに考えて来ると気がせいせいして来た。
 昨日《きのう》もちょうどそんな事を考えながら歩いて、つまるところがペンキの看版《かんばん》かきになろうが稲荷《いなり》や八幡様《はちまんさま》の奉納絵を画こうがかまわない。やるところまでやると決心したからには、わき目もふれないなどしきりに思い続けて例の森まで行った。
 どこを画こうかと撰《えら》んで見たが、森その物は無論画いたところで画《え》としてはかえっておもしろくないから、何でも森を斜《はす》に取って西北の地平線から西へかけて低いところにもしゃもしゃと生《は》えてる楢林《ならばやし》あたりまでを写して見ることに決めた。
 道は随分暑かッたが森へ来て少し休むと薄暗い奥の方から冷たい風が吹いて来ていい心持《こころもち》になった、青葉の影の透きとおるような光を仰いで身体《からだ》を横に足を草の上に投げ出してじっと向こうを見ていると、何という静かな美しい、のびのびした景色だろう! 僕は何《なん》もかも忘れてしばらくながめていた。
 でき上がったのがこれだ。われながらお話にはならないまずサ加減、しかし僕は幾度でもこれを画《か》く、まず僕の力でこれならと思うやつができるまでは何度でも写しにくると決心してかかったのだ。ところでこのまずいやつをここまで画《か》き上げるのに妙なことがあったのサ。
 しきりと画いていると、実景があまりよくッて僕の手がいかにもまずいので、画いていながらまたもや変な気になって何というまずサだろう、これが画といわりょうかおれはとてもだめなのかしらん、と思うと画くのがいやになってもうよそうかもうよそうかと思いながらやっていた。すると後ろの森の方でガサゴソと妙な音がした。この時サ、僕は振り向いて見ようとしたが、待て! こんな事では到底だめだ、たといまずかろうがまずいからこそ勉強して画《か》くのだ、奉納絵を画いてもいいという決心はどうした、一心不乱とはここの事だ、たとい耳のそばで狼《おおかみ》がほえようが心を取り乱し気を散じないくらいでなければならないのが、森の奥でちょっと音がしたって、すぐそれに気を取られるようでどうするかと、今度はまずくても何でもずんずん画いていると、ゴソッ、ガサッという音がだんだん近づいて来るようで気になってならない、その音がまたすこぶる妙なので、ちょうど僕が一心に画《か》いているのをつけこんで後ろから何者か、忍び足に僕をねらうように思われる。さアそう思うと振り向いて見たくッてたまらない。しかし一たん見まいと決心したからには意地《いじ》が出て振り向くのが愧《はず》かしく、また振り向くと向かないのとで僕の美術家たり得《う》るや否《いな》やの分かれ目のような気がして来た。
 またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳に入《はい》るようでそれが気になるようでそのために気をもむようではだめなんだ。もし真にわが一心をこの画幅とこの自然とに打ち込むなら大砲の音だって聞こえないだろうと。そこで画板にかじりつくようにして画《か》きはじめた。しかし何の益《やく》にも立たない、僕の心は七|分《ぶ》がた後ろの音に奪われているのだから。
 そこでまたこうも思った、何もそう固まるには及ばない、気になるならなるで、ちょっと見て烏《からす》か狐《きつね》か盗賊か鬼か蛇《じゃ》かもしくは一つ目小僧か大入道《おおにゅうどう》かそれを確かめて、安心して画いたがよサそうなものだ、よろしいそうだと振り向こうとしたが、残念でたまらない、もしここでおれが後ろへ振り向くならもう今日《きょう》かぎり画家はやめるのだゾ、よしか、それでよければ向け、もしこの森にいるとかうわさのある狂犬であっておれの後ろからいきなり頸筋《くびすじ》へ食らいつくなら着いてもいいではないか。それで死んでもかまわない、こうなればもう意地だ! この意地が通されないくらいなら美術家たるは
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