号外
国木田独歩

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)正宗《まさむね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)男爵|加藤《かとう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)小ザッぱり[#「ザッぱり」に傍点]
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 ぼろ洋服を着た男爵|加藤《かとう》が、今夜もホールに現われている。彼は多少キじるし[#「キじるし」に傍点]だとの評がホールの仲間にあるけれども、おそらくホールの御連中にキ[#「キ」に白丸傍点]的傾向を持っていないかたはあるまいと思われる。かく言う自分もさよう、同類と信じているのである。
 ここに言うホールとは、銀座何丁目の狭い、窮屈な路地にある正宗《まさむね》ホールの事である。
 生一本《きいっぽん》の酒を飲むことの自由自在、孫悟空《そんごくう》が雲に乗り霧を起こすがごとき、通力《つうりき》を持っていたもう「富豪」「成功の人」「カーネーギー」「なんとかフェラー」、「実業雑誌の食《く》い物」の諸君にありてはなんでもないでしょう、が、われわれごときにありては、でない、さようでない。正宗ホールでなければ飲めません。
 感心にうまい酒を飲ませます。混成酒ばかり飲みます、この不愉快な東京にいなければならぬ不幸《ふしあわせ》な運命のおたがいに取りては、ホールほどうれしい所はないのである。
 男爵加藤が、いつもどなる、なんと言うてどなる「モー一本」と言うてどなる。
 彫刻家の中倉の翁が、なんと言うて、その太い指を出す、「一本」
 ことごとく飲み仲間だ。ことごとく結構!
 今夜も「加《か》と男《だん》」がノッソリ御出張になりました。「加と男」とは「加藤男爵」の略称、御出張とは、特に男爵閣下にわれわれ平民ないし、平《ひら》ザムライどもが申し上げ奉る、言葉である。けれどもが、さし向かえば、些《さ》の尊敬をするわけでもない、自他平等、海藻《のり》のつくだ煮の品評に余念もありません。
「戦争《いくさ》がないと生きている張り合いがない、ああツマラない、困った事だ、なんとか戦争《いくさ》を始めるくふうはないものかしら。」
 加藤君が例のごとく始めました。「男《だん》」はこれが近ごろの癖なのである。近ごろとは、ポーツマウスの平和以後の冬の初めのころを指さす。
 中倉先生は大の反対論者で、こういう奇抜な事を言った事がある。
「モシできる事なら、大理石の塊《かたまり》のまん中に、半人半獣の二人がかみ合っているところを彫ってみたい、塊の外面《そと》にそのからみ合った手を現わして。という次第は、彼ら争闘を続けている限りは、その自由をうる時がない、すなわち幽閉である。封じかつ縛せられているのである。人類相争う限り、彼らはまだ、その真の自由を得ていないという意味を示してみたいものである。」
「お示しなさいな。御勝手に」「男《だん》」は冷ややかに答えた事がある。
 そこで「加と男」の癖が今夜も始まったけれど、中倉翁、もはや、しいて相手になりたくもないふうであった。
「大理石の塊《かたまり》で彫ってもらいたいものがある、なんだと思われます、わが党の老美術家」、加藤はまず当たりました。
「大砲だろう」と、中倉先生もなかなかこれで負けないのである。
「大違いです。」
「それならなんだ、わかったわかった」
「なんだ」と今度は「男《だん》」が問うている。
 二人の問答を聞いているのもおもしろいが、見ているのも妙だ、一人は三十前後の痩《や》せがたの、背の高い、きたならしい男、けれどもどこかに野人ならざる風貌《ふうぼう》を備えている、しかしなんという乱暴な衣装《みなり》だろう、古ぼけた洋服、ねずみ色のカラー、くしを入れない乱髪《らんぱつ》! 一人は四十幾歳、てっぺんがはげている。比ぶればいくらか服装《なり》はまさっているが、似たり寄ったり、なぜ二人とも洋服を着ているか、むしろ安物でもよいから小ザッぱり[#「ザッぱり」に傍点]した和服のほうがよさそうに思われるけれども、あいにくと二人とも一度は洋行なるものをして、二人とも横文字が読めて、一方はボルテーヤとか、ルーソーとか、一方はラファエルとかなんとか、もし新聞記者ならマコーレーをお題目としたことのある連中であるから、無理もない。かく申す自分がカーライル! すみのほうににやりにやり笑いながら、グビついているゾラもあり。
 綿貫《わたぬき》博士《はかせ》がそばで皮肉を言わないだけがまだしも、先生がいると問答がことさらにこみ入る。
「わかったとも、大わかりだ、」と楠公《なんこう》の社《やしろ》に建てられて、ポーツマウス一件のために神戸《こうべ》市中をひきずられたという何侯爵《なんのこうしゃく》の銅像を作った名誉の彫刻家が、子供のようにわめいた。
「イヤとてもわかるも
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