らず起こらん、そのときわれを父と思え、そなたの父はわれなり」
かくて源叔父は昔見し芝居の筋を語りいで、巡礼謡《じゅんれいうた》をかすかなる声にてうたい聞かせつ、あわれと思わずやといいてみずから泣きぬ。紀州には何事も解しかぬ様《さま》なり。
「よしよし、話のみにては解しがたし、目に見なばそなたもかならず泣かん」いいおわりて苦しげなる息、ほと吐《つ》きたり。語り疲れてしばしまどろみぬ。目さめて枕辺を見しに紀州あらざりき。紀州よ我子よと呼びつつ走りゆくほどに顔のなかばを朱に染めし女|乞食《こじき》いずこよりか現われて紀州は我子なりといいしが見るうちに年若き眼に変わりぬ。ゆり[#「ゆり」に傍点]ならずや幸助をいかにせしぞ、わが眠りし間に幸助いずれにか逃げ亡《う》せたり、来たれ来たれ来たれともに捜せよ、見よ幸助は芥溜《ごみため》のなかより大根の切片《きれ》掘りだすぞと大声あげて泣けば、後《うし》ろより我子よというは母なり。母は舞台見ずやと指《ゆび》さしたまう。舞台には蝋燭《ろうそく》の光|眼《まなこ》を射るばかり輝きたり。母が眼のふち赤らめて泣きたまうを訝《いぶか》しく思いつ、自分《おのれ》は菓子のみ食いてついに母の膝に小さき頭|載《の》せそのまま眠入りぬ。母親ゆり起こしたまう心地して夢破れたり。源叔父は頭《つむり》をあげて、
「我子よ今恐ろしき夢みたり」いいつつ枕辺を見たり。紀州いざりき。
「わが子よ」嗄《しわ》がれし声にて呼びぬ。答なし。窓を吹く風の音|怪《あや》しく鳴りぬ。夢なるか現《うつつ》なるか。翁《おきな》は布団《ふとん》翻《はね》のけ、つと起《た》ちあがりて、紀州よ我子よと呼びし時、目《め》眩《くら》みてそのまま布団の上に倒れつ、千尋《ちひろ》の底に落入りて波わが頭上に砕けしように覚えぬ。
その日源叔父は布団|被《かぶ》りしまま起出でず、何も食わず、頭を布団の外にすらいださざりき。朝より吹きそめし風しだいに荒らく磯打つ浪の音すごし。今日は浦人も城下に出でず、城下より嶋《しま》へ渡る者もなければ渡舟《おろし》頼みに来る者もなし。夜に入りて波ますます狂い波止場の崩れしかと怪しまるる音せり。
朝まだき、東の空ようやく白みしころ、人々皆起きいでて合羽《かっぱ》を着、灯燈《ちょうちん》つけ舷燈|携《たずさ》えなどして波止場に集まりぬ。波止場は事なかりき。風落ちたれど
前へ
次へ
全15ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング