とき様にてうち守りぬ。翁は呆《あき》れてしばし言葉なし。
「寒からずや、早く帰れ我子」いいつつ紀州の手取りて連れ帰りぬ。みちみち源叔父は、わが帰りの遅かりしゆえ淋しさに堪えざりしか、夕餉《ゆうげ》は戸棚に調《ととの》えおきしものをなどいいいい行けり。紀州は一言もいわず、生憎《あやにく》に嘆息もらすは翁なり。
 家に帰るや、炉に火を盛に燃《た》きてそのわきに紀州を坐らせ、戸棚より膳《ぜん》取り出だして自身《おのれ》は食らわず紀州にのみたべさす。紀州は翁のいうがままに翁のものまで食いつくしぬ。その間源叔父はおりおり紀州の顔見ては眼閉じ嘆息せり。たべおわりなば火にあたれといいて、うまかりしかと問う紀州は眠気なる眼《まなこ》にて翁が顔を見てかすかにうなずきしのみ。源叔父はこの様《さま》見るや、眠くば寝よと優《やさ》しくいい、みずから床敷きて布団《ふとん》かけてやりなどす。紀州の寝《いね》し後、翁は一人炉の前に坐り、眼を閉じて動かず。炉の火燃えつきんとすれども柴くべず、五十年の永き年月を潮風にのみ晒《さら》せし顔には赤き焔の影おぼつかなく漂《ただよ》えり。頬を連《つた》いてきらめくものは涙なるかも。屋根を渡る風の音す、門《かど》に立てる松の梢《こずえ》を嘯《うそぶ》きて過ぎぬ。
 翌朝《つぎのあさ》早く起きいでて源叔父は紀州に朝飯たべさせ自分《おのれ》は頭重く口|渇《かわ》きて堪えがたしと水のみ飲みて何も食わざりき。しばししてこの熱を見よと紀州の手取りて我|額《ひたい》に触れしめ、すこし風邪《かぜ》ひきしようなりと、ついに床のべてうち臥《ふ》しぬ。源叔父の疾《や》みて臥《ふ》するは稀なることなり。
「明日《あす》は癒《い》えん、ここに来たれ、物語して聞かすべし」しいてうちえみ、紀州を枕辺《まくらべ》に坐らせて、といきつくづくいろいろの物語して聞かしぬ。そなたは鱶《ふか》ちょう恐ろしき魚見しことなからんなど七ツ八ツの児に語るがごとし。ややありて。
「母親恋しくは思わずや」紀州の顔見つつ問いぬ。この問を紀州の解《げ》しかねしようなれば。
「永く我家にいよ、我をそなたの父と思え、――」
 なおいい続《つ》がんとして苦しげに息す。
「明後日《あさって》の夜は芝居見に連れゆくべし。外題《げだい》は阿波十郎兵衛《あわのじゅうろべえ》なる由《よし》ききぬ。そなたに見せなば親恋しと思う心かな
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