を描きつつ消えゆくとぞみえし。波紋は渚《なぎさ》を打てり。山彦《やまびこ》はかすかに応《こた》えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより醒《さ》めて山のかなたより今の我を呼ぶならずや。
 老《としより》夫婦は声も節も昔のごとしと賛《ほ》め、年若き四人は噂に違《たが》わざりけりと聴きほれぬ。源叔父は七人の客わが舟にあるを忘れはてたり。
 娘二人を島に揚げし後は若者ら寒しとて毛布《けっと》被《かぶ》り足を縮めて臥《ふ》しぬ。老《としより》夫婦は孫に菓子与えなどし、家の事どもひそひそと語りあえり。浦に着きしころは日落ちて夕煙村を罩《こ》め浦を包みつ。帰舟《かえり》は客なかりき。醍醐《だいご》の入江の口を出《いず》る時|彦岳嵐《ひこだけあらし》身《み》に※[#「さんずい+参」、第4水準2−78−61]《し》み、顧《かえり》みれば大白《たいはく》の光|漣《さざなみ》に砕《くだ》け、こなたには大入島《おおにゅうじま》の火影|早《はや》きらめきそめぬ。静かに櫓こぐ翁の影黒く水に映れり。舳《へさき》軽く浮かべば舟底たたく水音、あわれ何をか囁《ささや》く。人の眠|催《もよお》す様《さま》なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり。物を追いやるようなり。
 家には待つものあり、彼は炉《ろ》の前に坐りて居眠《いねむ》りてやおらん、乞食せし時に比べて我家のうちの楽しさ煖《あたた》かさに心|溶《と》け、思うこともなく燈火《ともしび》うち見やりてやおらん、わが帰るを待たで夕餉《ゆうげ》おえしか、櫓こぐ術《すべ》教うべしといいし時、うれしげにうなずきぬ、言葉すくなく絶えずもの思わしげなるはこれまでの慣《なら》いなるべし、月日経たば肉づきて頬赤らむ時もあらん、されどされど。源叔父は頭《かしら》を振りぬ。否々《いないな》彼も人の子なり、我子なり、吾に習いて巧みにうたい出る彼が声こそ聞かまほしけれ、少女《おとめ》一人乗せて月夜に舟こぐこともあらば彼も人の子なりその少女ふたたび見たき情《こころ》起こさでやむべき、われにその情《こころ》見《み》ぬく眼ありかならずよそには見じ。
 波止場に入りし時、翁は夢みるごときまなざしして問屋《といや》の燈火《ともしび》、影長く水にゆらぐを見た
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