ざけ》る者もありき。近ごろはあるかなきかに思われし源叔父またもや人の噂《うわさ》にのぼるようになりつ。
 雪の夜より七日《なのか》余り経ちぬ。夕日影あざやかに照り四国地遠く波の上に浮かびて見ゆ。鶴見崎のあたり真帆片帆《まほかたほ》白し。川口の洲《す》には千鳥飛べり。源叔父は五人の客乗せて纜《ともづな》解かんとす、三人の若者駈けきたりて乗りこめば舟には人満ちたり。島にかえる娘二人は姉妹《はらから》らしく、頭に手拭《てぬぐい》かぶり手に小さき包み持ちぬ。残り五人は浦人なり、後れて乗りこみし若者二人のほかの三人《みたり》は老《としより》夫婦と連《つれ》の小児《こども》なり。人々は町のことのみ語りあえり。芝居のことを若者の一人語りいでし時、このたびのは衣裳《いしょう》も格別に美しき由《よし》島にはいまだ見物せしものすくなけれど噂のみはいと高しと姉なる娘いう。否《いな》さまでならず、ただ去年のものにはすこしく優《まさ》れりとうち消すようにいうは老婦《おうな》なり。俳優《やくしゃ》のうちに久米五郎《くめごろう》とて稀《まれ》なる美男まじれりちょう噂島の娘らが間に高しとききぬ、いかにと若者|姉妹《はらから》に向かっていえば二人は顔赤らめ、老婦《おうな》は大声に笑いぬ。源叔父は櫓《ろ》こぎつつ眼《まなこ》を遠き方《かた》にのみ注《そそ》ぎて、ここにも浮世の笑声高きを空耳《そらみみ》に聞き、一言も雑《まじ》えず。
「紀州を家に伴えりと聞きぬ、信《まこと》にや」若者の一人、何をか思い出《いで》て問う。
「さなり」翁は見向きもせで答えぬ。
「乞食の子を家に入れしは何ゆえぞ解《げ》しがたしと怪しむものすくなからず、独りはあまりに淋しければにや」
「さなり」
「紀州ならずとも、ともに住むほどの子島にも浦にも求めんにはかならずあるべきに」
「げにしかり」と老婦《おうな》口を入れて源叔父の顔を見上げぬ。源叔父はもの案じ顔にてしばし答えず。西の山|懐《ふところ》より真直に立ちのぼる煙の末の夕日に輝きて真青《まさお》なるをみつめしようなり。
「紀州は親も兄弟も家もなき童《わらべ》なり、我は妻も子もなき翁《おきな》なり。我彼の父とならば、彼我の子となりなん、ともに幸いならずや」独語《ひとりごと》のようにいうを人々心のうちにて驚きぬ、この翁がかく滑らかに語りいでしを今まで聞きしことなければ。
「げに月日
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