の若者である。きよろ/\四辺《あたり》を見廻して居たが吻《ほつ》と酒気《しゆき》を吐き、舌打して再び内によろめき込んだ。
三
宿の子のまめ/\しきが先に立ちて、明くれば九月二十六日朝の九時、愈々《いよ/\》空知川の岸へと出発した。
陰晴|定《さだ》めなき天気、薄き日影洩るゝかと思へば忽ち峰より林より霧起りて峰をも林をも路をも包んでしまう。山路は思ひしより楽にて、余は宿の子と様々の物語しつゝ身も心も軽く歩《あ》ゆんだ。
林は全く黄葉《きば》み、蔦紅葉《つたもみぢ》は、真紅《しんく》に染り、霧起る時は霞《かすみ》を隔《へだて》て花を見るが如く、日光直射する時は露を帯びたる葉毎に幾千万の真珠碧玉を連らねて全山|燃《もゆ》るかと思はれた。宿の子は空知川沿岸に於ける熊の話を為《な》し、続いて彼が子供心に聞き集めたる熊物語の幾種かを熱心に語つた。坂を下りて熊笹の繁《しげれ》る所に来ると彼は一寸立どまり
「聞えるだらう、川の音が」と耳を傾けた、「ソラ……聞えるだらう、あれが空知川、もう直ぐ其処だ。」
「見えさうなものだな。」
「如何して見えるものか、森の中に流れて居るのだ。」
二人は、頭を没する熊笹の間を僅に通う帯ほどの径《みち》を暫く行《ゆく》と、一人の老人の百姓らしきに出遇つたので、余は道庁の出張員が居る小屋を訊ねた。
「此径を三丁ばかり行くと幅の広い新開の道路に出る、其右側の最初の小屋に居なさるだ。」と言い捨てゝ老人は去《い》つて了つた。
歌志内を出発《たつ》てから此処までの間に人に出遇つたのは此老人ばかりで、途中又小屋らしき物を見なかつたのである、余は此老人を見て空知川の沿岸の既に多少《いくら》かの開墾者の入込《いりこ》んで居ることを事実の上に知つた。
熊笹の径《こみち》を通りぬけると果して、思ひがけない大道が深林を穿《うが》つて一直線に作られてある。其幅は五間以上もあらうか。然も両側に密茂《みつも》して居る林は、二丈を越へ三丈に達する大木が多いので、此幅広き大道も、堀割を通ずる鉄道線路のやうであつた。然し余は此道路を見て拓殖に熱心なる道庁の計営の、如何に困難多きかを知つたのである。
見れば此道路の最初の右側に、内地では見ることの出来ない異様なる掘立小屋《ほつたてごや》[#「掘立小屋」は底本では「堀立小屋」]がある。小屋の左右及び後背《うしろ》は林を倒して、二三段歩の平地が開かれて居る。余は首尾よく此小屋で道庁の属官、井田某及び他の一人に会ふことが出来た。
殖民課長の丁寧なる紹介は、彼等をして十分に親切に余が相談相手とならしめたのである。更に驚くべきは、彼等が余の名を聞いて、早く既に余を知つて居たことで、余の蕪雑なる文章も、何時しか北海道の思ひもかけぬ地に其読者を得て居たことであつた。
二人は余の目的を聞き終りて後、空知川沿岸の地図を披《ひら》き其経験多き鑑識を以て、彼処比処《かしここゝ》と、移民者の為めに区劃せる一区一万五千坪の地の中から六ヶ所ほど撰定して呉れた。
事務は終り雑談に移つた。
小屋は三間に四間を出でず、屋根も周囲《まはり》の壁も大木の皮を幅広く剥《は》ぎて組合したもので、板を用ゐしは床のみ、床には莚《むしろ》を敷き、出入の口はこれ又樹皮を組みて戸となしたるが一枚|被《おほ》はれてあるばかりこれ開墾者の巣なり家なり、いな城廓なり。一隅に長方形の大きな炉が切つて、これを火鉢に竈《かまど》に、煙草盆に、冬ならば煖炉に使用するのである。
「冬になつたら堪らんでしやうねこんな小屋に居ては。」
「だつて開墾者は皆《みん》なこんな小屋に住んで居るのですよ。どうです辛棒が出来ますか。」と井田は笑ひながら言つた。
「覚悟は為《し》て居ますが、イザとなつたら随分困るでしやう。」
「然し思つた程でもないものです。若し冬になつて如何《どう》しても辛棒が出来さうもなかつたら、貴所方《あなたがた》のことだから札幌へ逃げて来れば可いですよ。どうせ冬籠《ふゆごもり》は何処でしても同じことだから。」
「ハッハッハッヽヽヽ其《それ》なら初めから小作人|任《まかせ》にして御自分は札幌に居る方が可《よ》からう。」と他の属官が言つた。
「さうですとも、さうですとも冬になつて札幌に逃げて行くほどなら寧《いつ》そ初めから東京に居て開墾した方が可いんです。何に僕は辛棒しますよ。」と余は覚悟を見せた。井田は
「さうですな、先づ雪でも降つて来たら、此《この》炉にドン/\焼火《たきび》をするんですな、薪木《たきゞ》ならお手のものだから。それで貴所方だからウンと書籍《しよもつ》を仕込《しこん》で置いて勉強なさるんですな。」
「雪が解ける時分には大学者になつて現はれるといふ趣向ですか。」と余は思わず笑つた。
談《はな》して居ると、突
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