るから人の困厄を見れぱ、其人が何人《なんびと》であらうと、憎悪《にくあし》するの因縁《いはれ》さへ無くば、則ち同情を表する十年の交友と一般なのである。余は主人の口より其略伝を聞くに及んで彼の人物の余の推測に近きを知つた。
 彼は其生れ故郷に於て相当の財産を持つて居た処が、彼の弟二人は彼の相続したる財産を羨むこと甚だしく、遂には骨肉の争《あらそひ》まで起る程に及んだ。然るに彼の父なる七十の老翁も亦た少弟《せうてい》二人を愛して、ややもすれば兄に迫つて其財産を分配せしめやうとする。若しこれ三等分すれば、三人とも一家を立つることが出来ないのである。
「だから私は考へたのです、これつばかしの物を兄弟して争ふなんて余り量見が小さい。宜しいお前達に与《や》つて了う。たゞ五分の一だけ呉れろ、乃公《わし》は其を以《もつ》て北海道に飛ぶからつて。其処で小僧が九《こゝのつ》の時でした、親子三人でポイと此方《こつち》へやつて来たのです。イヤ人間といふものは何処にでも住まば住まれるものですよハッハッハッ」と笑つて「処が妙でせう、弟の奴等、今では私が分配《わけ》てやつた物を大概無くしてしまつて、それで居て矢張り小ぽけな村を此上もない土地のやうに思つて私が何度も北海道へ来て見ろと手紙ですゝめても出て来得《きえ》ないんでサ。」
 余は此男の為す処を見、其語る処を聞いて、大に得る処があつたのである。よしや此一小旅店の主人は、余が思ふ所の人物と同一でないにせよ、よしや余が思ふ所の人物は、此主人より推して更らに余自身の空想を加へて以て化成したる者にせよ、彼はよく自由によく独立に、社会に住んで社会に圧せられず、無窮の天地に介立して安んずる処あり、海をも山をも原野をも将《は》た市街をも、我物顔に横行濶歩して少しも屈托せず、天涯地角到る処に花の香《かんば》しきを嗅ぎ人情の温かきに住む、げに男はすべからく此の如くして男といふべきではあるまいか。
 斯く感ずると共に余の胸は大《おほい》に開けて、札幌を出でてより歌志内に着くまで、雲と共に結ぼれ、雨と共にしほれて居た心は端《はし》なくも天の一方深碧にして窮りなきを望んだやうな気がして来た。
 夜の十時頃散歩に出て見ると、雲の流《ながれ》急にして絶間《たえま》々々には星が見える。暗い町を辿《たど》つて人家を離れると、渓を隔てゝ屏風の如く黒く前面に横《よこた》はる杣山《そまやま》の上に月現はれ、山を掠《かす》めて飛ぶ浮雲は折り/\其前面を拭ふて居る。空気は重く湿めり、空には風あれども地は粛然として声なく、たゞ渓流の音のかすかに聞ゆるばかり。余は一方は山、一方は崖の爪先上りの道を進みて小高き広場に出たかと思ふと、突然耳に入つたものは絃歌の騒《さわぎ》である。
 見れば山に沿ふて長屋建《ながやだち》の一棟あり、これに対して又一棟あり。絃歌は此長屋より起るのであつた。一棟は幾戸かに分れ、戸々皆な障子をとざし、其障子には火影|花《はなや》かに映り、三絃の乱れて狂ふ調子放歌の激して叫ぶ声、笑ふ声は雑然として起つて居るのである、牛部屋に等しき此長屋は何ぞ知らん鉱夫どもが深山幽谷の一隅に求め得し歓楽境ならんとは。
 流れて遊女となり、流れて鉱夫となり、買ふものも売るものも、我世夢ぞと狂歌乱舞するのである。余は進んで此|長屋小路《ながやこうぢ》に入つた。
 雨上《あめあがり》の路はぬかるみ[#「ぬかるみ」に傍点]、水溜《みづだまり》には火影《ほかげ》うつる。家は離れて見しよりも更に哀れな建てざまにて、新開地だけにたゞ軒先障子などの白木の夜目にも生々《なま/\》しく見ゆるばかり、床《ゆか》低く屋根低く、立てし障子は地より直《たゞち》に軒に至るかと思はれ、既に歪《ゆが》みて隙間よりは鉤《つり》ランプの笠など見ゆ。肌脱《はだぬぎ》の荒くれ男の影鬼の如く映れるあり、乱髪の酌婦の頭の夜叉の如く映るかと思へば、床も落つると思はるゝ音が為て、ドツとばかり笑声の起る家もあり。「飲めよ」、「歌へよ」、「殺すぞ」、「撲《なぐ》るぞ」、哄笑、激語、悪罵、歓呼、叱咤、艶《つや》ある小節《こぶし》の歌の文句の腸を断つばかりなる、三絃の調子の嗚咽《むせぶ》が如き忽ちにして暴風、忽ちにして春雨《しゆんう》、見来れば、歓楽の中に殺気をこめ、殺気の中に血涙をふくむ、泣くは笑ふのか、笑ふのは泣くのか、怒《いかり》は歌か、歌は怒か、嗚呼《あゝ》儚《はかな》き人生の流よ! 数年前までは熊眠り狼住みし此渓間に流れ落ちて、こゝに澱《よど》み、こゝに激し、こゝに沈み、月影冷やかにこれを照して居る。
 余は通り過ぎて振り顧《かへ》り、暫し停立《たゝず》んで居ると、突然間近なる一軒の障子が開《あ》いて一人の男がつと現はれた。
「や、月が出た!」と振上げた顔を見れば年頃二十六七、背高く肩広く屈強
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