、君等は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマ[#「ヘチマ」に傍点]でもない!」
「大に賛成ですなア」と静《しずか》に沈重《おちつ》いた声で言った者がある。
「賛成でしょう!」と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。
「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴ほど愚なものはない」と岡本はその冴《さ》え冴《ざ》えした眼光を座上に放った。
「その説を承たまわろう、是非願いたい!」と近藤はその四角な腮《あご》を突き出した。
「君は何方《どちら》なんです、牛と薯《いも》、エ、薯でしょう?」と上村は知った顔に岡本の説を誘《いざの》うた。
「僕も矢張、牛肉党に非ず、馬鈴薯党にあらずですなア、然し近藤君のように牛肉が嗜《す》きとも決っていないんです。勿論《もちろん》例の主義という手製料理は大嫌《だいきらい》ですが、さりとて肉とか薯《いも》とかいう嗜好《しこう》にも従うことが出来ません」
「それじゃア何だろう?」と井山がその尤《もっと》もらしいしょぼしょぼ眼《まなこ》をぱちつかした。
「何でもないんです、比喩《ひゆ》は廃《よ》して露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、それならって俗に和して肉慾を充《みた》して以て我生足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、為《し》ないのではないので、実をいうと何方《どちら》でも可いから決めて了ったらと思うけれど何という因果か今以て唯《た》った一つ、不思議な願を持ているからそのために何方《どちら》とも得決《えき》めないでいます」
「何だね、その不思議な願と言うのは?」と近藤は例の圧《お》しつけるような言振《いいぶり》で問うた。
「一口には言えない」
「まさか狼《おおかみ》の丸焼で一杯飲みたいという洒落《しゃれ》でもなかろう?」
「まずそんなことです。……実は僕、或|少女《むすめ》に懸想《けそう》したことがあります」と岡本は真面目で語り出《いだ》した。
「愉快々々、談|愈々《いよいよ》佳境に入《い》って来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子を煖炉《ストーブ》の方へ引寄た。
「少し談《はなし》が突然《だしぬけ》ですがね、まず僕の不思議の願というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女《むすめ》はなかなかの美人でした」
「ヨウ! ヨウ!」と松木は躍上《おどりあが》らんばかりに喜こんだ。
「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排《あんばい》は西洋婦人のように肉附が佳《よ》くってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌《あいきょう》を含めて凝然《じっ》と睇視《みつめ》られるなら大概の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了ったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目位から変に引つけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕は未だ恋《ラブ》したとは思いませんでしたねえ。
「或日僕がその女の家へ行きますと、両親は不在で唯《た》だ女中とその少女《むすめ》と妹《いもと》の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女《むすめ》は身体《からだ》の具合が少し悪いと言って鬱《ふさ》いで、奥の間に独《ひとり》、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕は縁辺《えんがわ》に腰をかけたまま聴《き》いていました。
『お栄さん僕はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなって堪《たま》りません』と思わず口に出しますと
『小妹《わたくし》は何故《なぜ》こんな世の中に生きているのか解らないのよ』と少女《むすめ》がさもさも頼《たより》なさそうに言いました、僕にはこれが大哲学者の厭世論《えんせいろん》にも優《まさ》って真実らしく聞えたが、その先は詳わしく言わないでも了解《わか》りましょう。
「二人は忽《たちま》ち恋の奴隷《やっこ》となって了ったのです。僕はその時初めて恋の楽しさと哀《かな》しさとを知りました、二月ばかりというものは全《まる》で夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一二《ひとつふたつ》お安価《やすく》ない幕を談《はな》すと先ずこんなこともありましたっケ、
「或《ある》日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家《はくしゃくけ》の令嬢なども見えていましたが夜の十時頃|漸《ようや》く散会になり僕はホテルから芝山内《しばさんない》の少女《むすめ》の宅まで、月が佳《よ》いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行《や》って来ると、途々《みちみち》母は口を極《きわ》めて洋行夫婦を褒《ほ》め頻《しきり
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