暫時《しばら》く凝然《じっ》と品川の沖の空を眺《なが》めていました。
『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電《いなずま》のように僕の心中最も暗き底に閃《ひらめ》いたと思うと僕は思わず躍《おど》り上がりました。そして其所《そこ》らを夢中で往きつ返《もど》りつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔を叱《しっ》するかのように言ってみたが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視《みつめ》ていると、蒼白《あおじろ》い少女《むすめ》の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。
「遂《つい》に僕は心を静めて今夜十分眠る方が可《よ》い、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上《のぼ》る時は少も気がつかなかったが路傍《みちばた》にある木の枝から人がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水《ひやみず》をかけられたように感じて、其所《そこ》に突立って了いました。
「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館《こうようかん》の方から山内へ下りると突当《つきあたり》にあるあの交番まで駈《か》けつけてその由を告げました……」
「その女が君の恋していた少女《むすめ》であったというのですかね」と近藤は冷ややかに言た。
「それでは全《まる》で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士には国に帰って了《しま》われ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、ともかく僕はその夜|殆《ほとん》ど眠りませんでした。
「然《し》かし能《よ》くしたもので、その翌日|少女《むすめ》の顔を見ると平常《ふだん》に変っていない、そしてそのうっとり[#「うっとり」に傍点]した眼に笑《えみ》を含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」
「なるほどこれはお安価《やす》くないぞ」と綿貫が床を蹶《け》って言った。
「まア黙って聴《き》きたまえ、それから」と松木は至極
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング