ないと元気がつかない。代《だい》はいつでもいいから飲《や》ったほうがよかろう。」と亭主《あるじ》は文公がなんとも返事せぬうちに白馬《どぶろく》を一本つけた。すると角《かど》ばった顔の男が、
「なアに文公が払えない時は、わしがどうにでもする。えッ、文公、だから一ツ飲《や》ってみな。」
 それでも文公は頭を押えたまま黙っていると、まもなく白馬一本と野菜の煮つけを少しばかり載せた小ざら一つが文公の前に置かれた。この時やっと頭を上げて、
「親方どうも済まない。」と弱い声で言ってまたも咳《せき》をしてホッとため息をついた。長おもてのやせこけた顔で、頭は五分刈りがそのまま伸びるだけ伸びて、ももくちゃ[#「ももくちゃ」に傍点]になって少しのつやもなく、灰色がかっている。
 文公のおかげで陰気がちになるのもしかたがない、しかしたれもそれを不平に思う者はないらしい。文公は続けざまに三四杯ひっかけてまたも頭を押えたが、人々の親切を思わぬでもなく、また深く思うでもない。まるで別の世界から言葉をかけられたような気持ちもするし、うれしいけれど、それがそれまでの事である事を知っているから「どうせ長くはない」との感じを、しばしの間でもよいから忘れたくても忘れる事ができないのである。
 からだにも心にも、ぽかんとしたような絶望的|無我《ぶが》が霧のように重く、あらゆる光をさえぎって立ちこめている。
 すき腹に飲んだので、まもなく酔いがまわり、やや元気づいて来た。顔を上げて我れ知らずにやり[#「にやり」に傍点]と笑った時は、四角の顔がすぐ、
「そら見ろ、気持ちが直ったろう。飲《や》れ飲《や》れ、一本で足りなきゃアもう一本|飲《や》れ、わしが引き受けるから。なんでも元気をつけるにゃアこれに限るッて事よ!」と御自身のほうが大元気になって来たのである。
 この時、外から二人の男が駆けこんで来た。いずれも土方ふうの者である。
「とうとう降《や》って来やアがった。」と叫んで思い思いに席を取った。文公の来る前から西の空がまっ黒に曇り、遠雷さえとどろきて、ただならぬけしきであったのである。
「なに、すぐ晴《あが》ります。だけど今時分の夕立なんて、よっぽど気まぐれだ。」と亭主《あるじ》が言った。
 二人が飛びこんでから急ににぎおうて来て、いつしか文公に気をつける者もなくなった。外はどしゃ降りである。二つのランプの光
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