》と自分《じぶん》の作《さく》。
 一|見《けん》自分《じぶん》は先《ま》づ荒膽《あらぎも》を拔《ぬ》かれてしまつた。志村《しむら》の畫題《ぐわだい》はコロンブスの肖像《せうざう》ならんとは! 而《しか》もチヨークで書《か》いてある。元來《ぐわんらい》學校《がくかう》では鉛筆畫《えんぴつぐわ》ばかりで、チヨーク畫《ぐわ》は教《をし》へない。自分《じぶん》もチヨークで畫《か》くなど思《おも》ひもつかんことであるから、畫《ゑ》の善惡《よしあし》は兔《と》も角《かく》、先《ま》づ此《この》一|事《じ》で自分《じぶん》は驚《おどろ》いてしまつた。その上《うへ》ならず、馬《うま》の頭《あたま》と髭髯《しぜん》面《めん》を被《おほ》ふ堂々《だう/\》たるコロンブスの肖像《せうざう》とは、一|見《けん》まるで比《くら》べ者《もの》にならんのである。且《か》つ鉛筆《えんぴつ》の色《いろ》はどんなに巧《たく》みに書《か》いても到底《たうてい》チヨークの色《いろ》には及《およ》ばない。畫題《ぐわだい》といひ色彩《しきさい》といひ、自分《じぶん》のは要《えう》するに少年《せうねん》が書《か》いた畫《ぐわ》、志村《しむら》のは本物《ほんもの》である。技術《ぎじゆつ》の巧拙《かうせつ》は問《と》ふ處《ところ》でない、掲《かゝ》げて以《もつ》て衆人《しゆうじん》の展覽《てんらん》に供《きよう》すべき製作《せいさく》としては、いかに我慢強《がまんづよ》い自分《じぶん》も自分《じぶん》の方《はう》が佳《い》いとは言《い》へなかつた。さなきだに志村《しむら》崇拜《すうはい》の連中《れんちゆう》は、これを見《み》て歡呼《くわんこ》して居《ゐ》る。『馬《うま》も佳《い》いがコロンブスは如何《どう》だ!』などいふ聲《こゑ》が彼處《あつち》でも此處《こつち》でもする。
 自分《じぶん》は學校《がくかう》の門《もん》を走《はし》り出《で》た。そして家《うち》には歸《かへ》らず、直《す》ぐ田甫《たんぼ》へ出《で》た。止《と》めやうと思《おも》ふても涙《なみだ》が止《と》まらない。口惜《くやし》いやら情《なさ》けないやら、前後夢中《ぜんごむちゆう》で川《かは》の岸《きし》まで走《はし》つて、川原《かはら》の草《くさ》の中《うち》に打倒《ぶつたふ》れてしまつた。
 足《あし》をばた/\やつて大聲《おほごゑ》を上《あ
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