自分は彼の差した杯《さかずき》を受け、少《すこし》ずつ啜《すす》りながら彼の言う処《ところ》を聞《きい》て居たが、聞くに連れて自分は彼を怪しむ念の益々《ますます》高《たかま》るを禁じ得なかった。けれども決して彼の秘密に立入《たちいろ》うとは思なかった。
「それで先刻僕が此処《ここ》へ来て見ると、意外にも貴様《あなた》が既に此《この》場処を占領して居たのです、驚きましたね、怪《け》しからん人もあるものだ僕の酒庫を犯し、僕の酒宴の莚《むしろ》を奪いながら平気で書籍《ほん》を読んで居るなんてと、僕はそれで貴様を見つめながら此処を去らなかったのです。」と彼は微笑して言った、其《その》眼元《めもと》には心の底に潜《ひそ》んで居る彼の優《やさし》い、正直な人柄の光さえ髣髴《ほのめ》いて、自分には更に其《それ》が惨《いたま》しげに見えた、其処《そこ》で自分も笑《わらい》を含み、
「そうでしょう、それでなければあんな眼つきで僕を御覧になる訳は御座いません。さも恨めしそうでした。」
「イヤ恨めしくは御座いません、情なかったのです。オヤ/\乃公《おれ》は隠して置いた酒さえも何時《いつ》か他人《ひと》の尻《しり》の下に敷《しか》れて了《しま》うのか、と自分の運命を詛《のろ》ったのです。詛うと言えば凄《すご》く聞えますが、実は僕にはそんな凄《すご》い了見《りょうけん》も亦《ま》た気力もありません。運命が僕を詛うて居《い》るのです――貴様《あなた》は運命ということを信じますか? え、運命ということ。如何《どう》です、も一《ひとつ》」と彼は罎《びん》を上げたので
「イヤ僕は最早《もう》戴《いただき》ますまい。」と杯《さかずき》を彼に返し「僕は運命論者ではありません。」
彼は手酌《てしゃく》で飲み、酒気を吐いて、
「それでは偶然論者ですか。」
「原因結果の理法を信ずるばかりです。」
「けれども其《その》原因は人間の力より発し、そして其結果が人間の頭上に落ち来るばかりでなく、人間の力以上に原因したる結果を人間が受ける場合が沢山ある。その時、貴様は運命という人間の力以上の者を感じませんか。」
「感じます、けれども其《それ》は自然の力です。そして自然界は原因結果の理法以外には働かないものと僕は信じて居ますから、運命という如《ごと》き神秘らしい名目を其《その》力に加えることは出来ません。」
「そうですか、そうですか、解《わか》りました。それでは貴様《あなた》は宇宙に神秘なしと言うお考《かんがえ》なのです、要之《つまり》、貴様には此《この》宇宙に寄する此人生の意義が、極く平易|明亮《めいりょう》なので、貴様の頭は二々《ににん》が四《し》で、一切《いっせつ》が間に合うのです。貴様の宇宙は立体でなく平面です。無窮無限という事実も貴様には何等《なんら》、感興と畏懼《いく》と沈思とを喚《よ》び起す当面の大いなる事実ではなく、数の連続を以《もっ》てインフィニテー(無限)を式で示そうとする数学者のお仲間でしょう。」と言って苦しそうな嘆息を洩《もら》し、冷《ひやや》かな、嘲《あざけ》るような語気で、
「けれども、実は其方が幸福なのです。僕の言葉で言えば貴様は運命に祝福されて居る方、貴様の言葉で言えば僕は不幸な結果を身に受けて居る男です。」
「それでは此《これ》で失礼します。」と自分は起上《たちあが》った、すると彼は狼狽《あわて》て自分を引止め、「ま、ま、貴様怒ったのですか。若《も》し僕の言った事がお気に触ったら御勘弁を願います。つい其《そ》の自分で勝手に苦《くるし》んで勝手に色々なことを、馬鹿な訳にも立たん事を考《かん》がえて居《お》るもんですから、つい見境もなく饒舌《しゃべる》のです。否《いいえ》、誰《だれ》にも斯《そ》んなことを言った事はないのです。けれども何んだか貴様《あなた》には言って見とう感じましたから遠慮もなく勝手な熱を吹いたので、貴様には笑われるかも知れませんが。僕にはやはり怪《あや》しの運命が僕と貴様を引着《ひきつけ》たように感ぜられるのです。不幸《ふしあわ》せな男と思って、もすこしお話し下さいませんか、もすこし……」
「けれども別にお話しするようなことも僕には有りませんが……」
「そう言わないで何卒《どうか》もすこし此処《ここ》に居《い》て下さいな、もすこし……。噫《ああ》! 如何《どう》して斯《こ》う僕は無理ばかり言うのでしょう! 酔《よっ》たのでしょうか。運命です、運命です、可《よ》う御座います、貴様にお話がないなら僕が話します。僕が話すから聞いて下さい、せめて聴《きい》て下さい、僕の不幸《ふしあわせ》な運命を!」
此《この》苦痛の叫《さけび》を聞いて何人《なんびと》か心を動かさざらん。自分は其《その》儘《まま》止《とどま》って、
「聞きましょうとも
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