で、不審に思って老僧に遇《あ》い、右の事を訊《たず》ねました。尤《もっと》も唯《た》だ所縁《ゆかり》のものとのみ、僕の身の上は打明けないのです。
 すると老僧は馬場金之助の妻お信《のぶ》の墓のあるべき筈《はず》はない。彼《あ》の女は金之助の病中に、碁の弟子で、町の豪商|某《なにがし》の弟と怪しい仲になり、金之助の病気は其《その》為《ため》更に重くなったのを気の毒とも思ず、遂《つい》に乳飲児《ちのみご》[#「乳飲児」は底本では「飲乳児」]を置去りにして駈落《かけおち》して了《しま》ったのだと話しました。
 老僧は猶《なお》も父が病中母を罵《のの》しったこと、死際《しにぎわ》に大塚剛蔵に其|一子《いっし》を托したことまで語りました。
 其お信が高橋梅であるということは、誰《だれ》も知らないのです。僕も証拠は持《もっ》て居《い》ません。けれども老僧がお信のことを語る中に早くも僕は今の養母が則《すなわ》ちそれであることを確信したのです。
 僕は山口で直《す》ぐ死んで了おうかと思いました。彼《あ》の時、実に彼の時、僕が思い切《きっ》て自殺して了ったら、寧《むし》ろ僕は幸《さいわい》であったのです。
 けれども僕は帰って来ました。一《ひとつ》は何とかして確《たしか》な証拠を得たいため、一は里子に引寄せられたのです。里子は兎《と》も角《かく》も妹ですから、僕の結婚の不倫であることは言うまでもないが、僕は妹として里子を考えることは如何《どう》しても出来ないのです。
 人の心ほど不思議なものはありません。不倫という言葉は愛という事実には勝てないのです。僕と里子の愛が却《かえ》って僕を苦しめると先程言ったのは此《この》事です。
 僕は里子を擁《よう》して泣きました。幾度も泣きました。僕も亦《ま》た母と同じく物狂《ものぐるお》しくなりました、憐《あわ》れなるは里子です。総《すべ》ての事が里子には怪しき謎《なぞ》で、彼はたゞ惑《まど》いに惑うばかり、遂《つい》には母と同じく怨霊《おんりょう》を信ずるようになり、今も横浜の宅で母と共に不動明王に祈念を凝《こら》して居るのです。里子は怨霊の本体を知らず、たゞ母も僕も此怨霊に苦しめられて居るものと信じ、祈念の誠を以《もっ》て母と所天《おっと》[#「所天」は底本では「所夫」]を救《すくお》うとして居るのです。
 僕は成るべく母を見ないようにして居ます。母も僕に遇《あ》うことを好みません。母の眼《め》には成程僕が怨霊の顔と同じく見えるでしょうよ。僕は怨霊の児《こ》ですもの!
 僕には母を母として愛さなければならん筈《はず》です、然《しか》し僕は母が僕の父を瀕死《ひんし》の際《きわ》に捨て、僕を瀕死の父の病床に捨てて、密夫《みっぷ》と走ったことを思うと、言うべからざる怨恨《えんこん》の情が起るのです。僕の耳には亡父《なきちち》の怒罵《どば》の声が聞こえるのです。僕の眼《め》には疲れ果《はて》た身体《からだ》を起して、何も知らない無心の子を擁《いだ》き、男泣きに泣き給《たも》うた様が見えるのです。そして此《この》声を聞き此|様《さま》を見る僕には実に怨霊の気が乗移《のりうつ》るのです。
 夕暮の空ほの暗い時に、柱に靠《もた》れて居《い》た僕が突然、眼《まなこ》を張り呼吸《いき》を凝《こら》して天の一方を睨《にら》む様を見た者は母でなくとも逃げ出すでしょう。母ならば気絶するでしょう。
 けれども僕は里子のことを思うと、恨《うらみ》も怒《いかり》も消えて、たゞ限りなき悲哀《かなしみ》に沈み、この悲哀の底には愛と絶望が戦うて居るのです。
 処《ところ》が此《この》九月でした、僕は余りの苦悩《くるしさ》に平常|殆《ほとん》ど酒杯《さかずき》を手にせぬ僕が、里子の止《とめ》るのも聴《きか》ず飲めるだけ飲み、居間の中央に大の字になって居ると、何《なん》と思ったか、母が突然鎌倉から帰って来て里子だけを其《その》居間に呼びつけました。そして僕は酔って居ながらも直《す》ぐ其|理由《わけ》の尋常でないことを悟ったのです。
 一時間ばかり経《た》つと里子は眼を泣き膨《は》らして僕の居間に帰て来ましたから、『如何《どう》したのだ。』と聞くと里子は僕の傍《そば》に突伏《つっぷ》して泣きだしました。
『母上《おっかさん》が僕を離婚すると云《い》ったのだろう。』と僕は思わず怒鳴りました。すると里子は狼狽《あわて》て、
『だからね、母が何と言っても所天《あなた》[#「所天」は底本では「所夫」]決して気にしないで下さいな。気狂《きちがい》だと思って投擲《うっちゃ》って置いて下さいな、ね、後生ですから。』と泣声を振わして言いますから、『そういうことなら投擲《うっちゃ》って置く訳に行かない。』と僕はいきなり母の居間に突入しました。里子は止める間《ひま》
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