、四十位にしか見えず、小柄の女で美人の相を供《そな》え、なか/\立派な婦人です。そして情の烈《はげ》しい正直な人柄といえば、智慧《ちえ》の方はやゝ薄いということは直《す》ぐ解《わか》るでしょう。快活で能《よ》く笑い能《よ》く語りますが、如何《どう》かすると恐しい程沈欝な顔をして、半日|何人《なんびと》とも口を交《まじ》えないことがあります。僕は養子とならぬ以前から此《この》人柄に気をつけて居《い》ましたが、里子と結婚して高橋の家《うち》に寝起することとなりて間もなく、妙なことを発見したのです。
それは夜の九時頃になると、養母は其《その》居間に籠《こも》って了《しま》い、不動明王を一心不乱に拝むことで、口に何ごとか念じつゝ床の間にかけた火炎の像の前に礼拝して十時となり十一時となり、時には夜半過《よなかすぎ》に及ぶのです、居間の中《うち》、沈欝《ふさ》いで居た晩は殊《こと》にこれが激しいようでした。
僕も始めは黙って居ましたが、余り妙なので或日《あるひ》このことを里子に訊《たず》ねると、里子は手を振って声を潜《ひそ》め、『黙って居らっしゃいよ。あれは二年前から初めたので、あのことを母に話すと母は大変|気嫌《きげん》を悪くしますから、成るべく知らん顔して居たほうが可《い》いんですよ。御覧なさい全然《まるで》狂気《きちがい》でしょう。』と別に気にもかけぬ様なので、僕も強《しい》ては問いもしなかったのです。
けれども其《その》後《ご》一月もして或日《あるひ》、僕は事務所から帰り、夜食を終て雑談して居《い》ると、養母は突然、
『怨霊《おんりょう》というものは何年|経《たっ》ても消えないものだろうか。』と問いました。すると里子は平気で、
『怨霊なんて有るもんじゃアないわ。』と一言で打消そうとすると、母は向《むき》になって、
『生意気を言いなさんな。お前見たことはあるまい。だからそんなことを言うのだ。』
『そんなら母上《おっかさん》は見て?』
『見ましたとも。』
『オヤそう、如何《どん》な顔をして居て? 私も見たいものだ。』と里子は何処《どこ》までも冷かしてかゝった。すると母は凄《すご》いほど顔色を変えて、
『お前|怨霊《おんりょう》が見たいの、怨霊が見たいの。真実《ほんと》に生意気なこというよ此《この》人《ひと》は!』と言い放ち、つッと起《たっ》て自分の部屋に引込《ひっこ》んで了《しま》った。僕は思わず、
『母上《おっかさん》如何《どう》か仕て居なさるよ、気を附けんと……』
里子は不安心な顔をして、
『私|真実《ほんと》に気味が悪いわ。母上《おっかさん》は必定《きっと》何にか妙なことを思って居るのですよ。』
『ちっと神経を痛めて居なさるようだね。』と僕も言いましたが、さて翌日になると別に変ったことはないのです。変って居るのは唯々《ただ》何時《いつ》もの通り夜になると不動様を拝むことだけで、僕等《ぼくら》もこれは最早《もはや》見慣れて居るから強《しい》て気にもかゝりませんでした。
処《ところ》が今歳《ことし》の五月です、僕は何時《いつも》よりか二時間も早く事務所を退《ひい》て家へ帰りますと、其《その》日《ひ》は曇って居たので家の中は薄暗い中《うち》にも母の室《へや》は殊《こと》に暗いのです。母に少し用事があったので別に案内もせず襖《ふすま》を開《あ》けて中に入ると母は火鉢《ひばち》の傍《そば》にぽつねんと座って居《い》ましたが、僕の顔を見るや、
『ア、ア、アッ、アッ!』と叫んで突起《つったっ》たかと思うと、又|尻餅《しりもち》を舂《つい》て熟《じっ》と僕を見た時の顔色! 僕は母が気絶したのかと喫驚《びっくり》して傍《そば》に駈寄《かけよ》りました。
『如何《どう》しました、如何しました』と叫《さ》けんだ僕の声を聞いて母は僅《わずか》に座り直し、
『お前だったか、私は、私は……』と胸を撫《さ》すって居ましたが、其《その》間《あいだ》も不思議そうに僕の顔を見て居たのです。僕は驚ろいて、
『母上《おっかさん》如何《どう》なさいました。』と聞くと、
『お前が出抜《だしぬけ》に入って来たので、私は誰《だれ》かと思った。おゝ喫驚《びっくり》した。』と直《す》ぐ床を敷《しか》して休んで了《しま》いました。
此《この》事《こと》の有った後は母の神経に益々《ますます》異常を起し、不動明王を拝むばかりでなく、僕などは名も知らぬ神符《おふだ》を幾枚となく何処《どこ》からか貰《もら》って来て、自分の居間の所々《しょしょ》に貼《はり》つけたものです。そして更に妙なのは、これまで自分だけで勝手に信じて居たのが、僕を見て驚ろいた後は、僕に向っても不動を信じろというので、僕が何故《なぜ》信じなければならぬかと聞くと、
『たゞ黙って信じてお呉《く》れ。それでないと
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