う人物は一種非凡な処《ところ》があって、碁以外に父は其《その》人物を尊敬して居たということです。その一子が則《すなわ》ち僕であったのです。
 父は其頃三十八、母は三十四で最早《もはや》子は出来ないものと諦《あき》らめて居ると、馬場が病で没し、其妻も間もなく夫の後を襲《おそう》て此《この》世を去り、残ったのは二歳《ふたつ》になる男の子、これ幸《さいわい》と父が引取って自分の児《こ》とし養ったので、父からいうと半分は孤児を救う義侠《ぎきょう》でしたろう。
 僕の生《うみ》の父母は未《ま》だ年が若く、父は三十二、母は二十五であったそうです。けれども母の籍が未だ馬場の籍に入らん内に僕が生れ、其|為《ため》でしょう、僕の出産届が未だ仕てなかったので、大塚の父は僕を引取るや直《ただち》に自分の子として届けたのだそうです。
 以上の事を話して大塚の父のいうには、
『其《その》後《ご》私《わし》は間もなく山口を去ったから、お前を私の実子でないと知るものは多くないのじゃ。私達夫婦は飽《あ》くまで実子の積《つもり》でこれまで育てて来たのじゃ。この先も同じことだからお前も決して癖見根生《ひがみこんじょう》を起さず、何処《どこ》までも私達を父母と思って老先《おいさき》を見届けて呉れ。秀輔《ひですけ》は実子じゃがお前のことは決して知らさんから、お前も真実の兄となって生涯|彼《あ》れの力ともなって呉れ。』と、老《おい》の眼《め》に涙を見るより先に僕は最早《もう》泣いて居たのです。
 其処《そこ》で養父と僕とは此等《これら》の秘密を飽《あ》くまで人に洩《もら》さぬ約束をし、又《ま》た僕が此《この》先何かの用事で山口にゆくとも、たゞ他所《よそ》ながら父母の墓に詣《もう》で、決して公けにはせぬということを僕は養父に約しました。
 其《その》後《ご》の月日は以前よりも却《かえ》って穏《おだや》かに過《すぎ》たのです。養父も秘密を明けて却《かえ》って安心した様子、僕も養父母の高恩を思うにつけて、心を傾けて敬愛するようになり、勉学をも励むようになりました。
 そして一日も早く独立の生活を営み得るようになり、自分は大塚の家から別れ、義弟の秀輔に家督《かとく》を譲りたいものと深く心に決する処《ところ》があったのです。
 三年の月日は忽《たちま》ち逝《ゆ》き、僕は首尾よく学校を卒業しましたが、猶《な》お養父の言葉に従い、一年間更に勉強して、さて弁護士の試験を受けました処《ところ》、意外の上首尾、養父も大よろこびで早速其友なる井上博士の法律事務所に周旋《しゅうせん》して呉《く》れました。
 兎《と》も角《かく》も一人前《いちにんまえ》の弁護士となって日々|京橋区《きょうばしく》なる事務所に通うて居《い》ましたが、若《も》し彼《あ》のまゝで今日になったら、養父も其目的通りに僕を始末し、僕も平穏な月日を送って益々《ますます》前途の幸福を楽《たのし》んで居たでしょう。
 けれども、僕は如何《どう》しても悪運の児《こ》であったのです。殆《ほとん》ど何人《なんびと》も想像することの出来ない陥穽《おとしあな》が僕の前に出来て居て、悪運の鬼は惨刻《ざんこく》にも僕を突き落しました。

      五

 井上博士は横浜にも一ヶ所事務所を持《もっ》て居ましたが、僕は二十五の春、此《この》事務所に詰めることとなり、名は井上の部下であっても其《その》実は僕が独立でやるのと同じことでした。年齢《とし》の割合には早い立身と云《い》っても可《よ》いだろうと思います。
 処《ところ》が横浜に高橋という雑貨商があって、随分盛大にやって居ましたが、其|主人《あるじ》は女で名は梅《うめ》、所天《つれあい》[#「所天」は底本では「所夫」]は二三年前に亡《なく》なって一人娘《ひとりむすめ》の里子《さとこ》というを相手に、先《ま》ず贅沢《ぜいたく》な暮《くらし》を仕《し》て居たのです。
 訴訟用から僕は此家に出入することとなり、僕と里子は恋仲になりました、手短に言いますが、半年|経《たた》ぬうちに二人《ふたり》は離れることの出来ないほど、逆《のぼ》せ上げたのです。
 そして其《その》結果は井上博士が媒酌《ばいしゃく》となり、遂《つい》に僕は大塚の家を隠居し高橋の養子となりました。
 僕の口から言うも変ですが、里子は美人というほどでなくとも随分人目を引く程の容色《きりょう》で、丸顔の愛嬌《あいきょう》のある女です。そして遠慮なくいいますが全く僕を愛して呉《く》れます、けれども此《この》愛は却《かえ》って今では僕を苦しめる一大要素になって居るので、若《も》し里子が斯《か》くまでに僕を愛し、僕が又た斯《こ》うまで里子を愛しないならば、僕はこれほどまでに苦しみは仕ないのです。
 養母の梅は今五十歳ですが、見た処《ところ》
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