身を托《たく》し高い大空を仰いで居る間は、僕の心が幾何《いくら》か自由を得る時です。その中《うち》には此激烈な酒精《アルコール》が左《さ》なきだに弱り果《はて》た僕の心臓を次第に破って、遂《つい》には首尾よく僕も自滅するだろうと思って居ます。」
「そんなら貴様《あなた》は、自殺を願うて居るのですか。」と自分は驚いて問うた。
「自殺じゃアない、自滅です。運命は僕の自殺すら許さないのです。貴様、運命の鬼が最も巧《たくみ》に使う道具の一は『惑《まどい》』ですよ。『惑』は悲《かなしみ》を苦《くるしみ》に変ます。苦悩《くるしみ》を更に自乗させます。自殺は決心です。始終|惑《まどい》のために苦んで居る者に、如何《どう》して此決心が起りましょう。だから『惑』という鈍い、重々しい苦悩《くるしみ》から脱れるには矢張《やはり》、自滅という遅鈍《ちどん》な方法しか策がないのです。」
と沁々《しみじみ》言う彼の顔には明《あきらか》に絶望の影が動いて居《い》た。
「如何《どう》いう理由《わけ》があるのか知りませんが、僕は他人の自殺を知って之《これ》を傍観する訳には行きません。自滅というも自殺に違いないのですから。」と自分が言うや、
「けれども自殺は人々の自由でしょう。」と彼は笑味《えみ》を含んで言った。
「そうかも知れません。然《しか》し之を止め得るならば、止めるのが又人々の自由なり義務です。」
「可《よ》う御座います。僕も決して自滅したくは有りません若《も》し貴様《あなた》が僕の物話《はなし》を悉皆《すっかり》聴《きい》て、其《その》上《うえ》で僕を救うの策を立てて下さるのなら僕は此《この》上《うえ》もない幸福です。」
 斯《こ》う聞いては自分も黙って居られない、
「可《よろ》しい! 何卒《どう》か悉皆《すっかり》聴かして貰《もら》いましょう。今度は僕の方からお願します。」

      三

「僕は高橋信造《たかはししんぞう》という姓名ですが、高橋の姓は養家のを冒《おか》したので、僕の元の姓[#「姓」は底本では「性」]は大塚《おおつか》というです。
 大塚信造と言った時のことから話しますが、父は大塚|剛蔵《ごうぞう》と言って御存知でも御座《ござ》いますか、東京控訴院の判事としては一寸《ちょっと》世間でも名の知れた男で、剛蔵の名の示す如《ごと》く、剛直|一端《いっぺん》の人物。随分僕を教育
前へ 次へ
全24ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国木田 独歩 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング