の拳《こぶし》もて腰をたたきたり。仰ぎ見る大ぞら、晴に晴れて、黒澄《くろす》み、星河《せいか》霜《しも》をつつみて、遠く伊豆の岬角《こうかく》に垂れたり。
身うち煖《あたた》かくなりまさりゆき、ひじたる衣の裾《すそ》も袖《そで》も乾きぬ。ああこの火、誰《た》が燃やしつる火ぞ、誰《た》がためにとて、誰《たれ》が燃やしつるぞ。今や翁の心は感謝の情にみたされつ、老の眼《まなこ》は涙ぐみたり。風なく波なく、さしくる潮《うしお》の、しみじみと砂を浸《ひた》す音を翁は眼《まなこ》閉じて聴きぬ。さすらう旅の憂《うき》もこの刹那《せつな》にや忘れはてけん、翁が心、今ひとたび童の昔にかえりぬ。
あわれこの火、ようように消えなんとす。竹も燃えつき、板も燃えつきぬ。かの太き丸太のみはなおよく燃えたり。されど翁はもはやこれを惜《お》しとも思わざりき。ただ立去りぎわに名残惜しくてや、両手もて輪をつくり、抱《いだ》くように胸のあたりまで火の上にかざしつ、眼しばだたきてありしが、いざとばかり腰うちのばし、二足三足《ふたあしみあし》ゆかんとして立ちかえれり、燃えのこりたる木の端々《はしばし》を掻集《かきあつ》めて火に加えつ、勢いよく燃え上がるを見て心地よげにうち笑みぬ。
翁のゆきし後、火は紅《くれない》の光を放ちて、寂寞《じゃくばく》たる夜の闇のうちにおぼつかなく燃えたり。夜更け、潮みち、童らが焼《たき》し火も旅の翁が足跡も永久《とこしえ》の波に消されぬ。
底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
1967(昭和42)年9月7日初版
1972(昭和47)年9月10日9版
底本の親本:「国木田独歩全集」学習研究社
入力:j.utiyama
校正:八巻美惠
1998年10月29日公開
2004年6月7日修正
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