がた》を鳴きつれて飛ぶ千鳥の声のみ聞こえてかなたこなた、ものさびしく、その姿見えずとみれば、夕闇に白きものはそれなり。あわただしく飛びゆくは鴫《しぎ》、かの葦間《あしま》よりや立ちけん。
この時、一人の童たちまち叫びていいけるは、見よや、見よや、伊豆の山の火はや見えそめたり、いかなればわれらが火は燃えざるぞと。童らは斉《ひと》しく立ちあがりて沖の方《かた》をうちまもりぬ。げに相模湾《さがみわん》を隔《へだ》てて、一点二点の火、鬼火《おにび》かと怪しまるるばかり、明滅し、動揺せり。これまさしく伊豆の山人《やまびと》、野火を放ちしなり。冬の旅人の日暮れて途《みち》遠きを思う時、遥《はる》かに望みて泣くはげにこの火なり。
伊豆の山燃ゆ、伊豆の山燃ゆと、童ら節《ふし》おもしろく唄い、沖の方のみ見やりて手を拍《う》ち、躍《おど》り狂えり。あわれこの罪なき声、かわたれ時の淋びしき浜に響きわたりぬ。私語《ささや》くごとき波音、入江の南の端より白き線《すじ》立《た》て、走りきたり、これに和《わ》したり。潮は満ちそめぬ。
この寒き日暮にいつまでか浜に遊ぶぞと呼ぶ声、砂山のかなたより聞こえぬ。童の心は伊豆の火の方にのみ馳《は》せて、この声を聞くものなかりき。帰らずや、帰らずやと二声三声、引続きて聞こえけるに、一人の幼なき児《こ》、聞きつけて、母呼びたまえり、もはやうち捨て帰らんといい、たちまちかなたに走りゆけば、残りの童らまた、さなり、さなりと叫びつ、競うて砂山に駈けのぼりぬ。
火の燃えつかざるを口惜《くやし》く思い、かの年かさなる童のみは、後《あと》振りかえりつつ馳せゆきけるが、砂山の頂《いただき》に立ちて、まさにかなたに走り下らんとする時、今ひとたび振向きぬ。ちらと眼《まなこ》を射《い》たるは火なり。こはいかに、われらの火燃えつきぬと叫べば、童ら驚ろき怪しみ、たち返えりて砂山の頂に集まり、一列に並びてこなたを見下ろしぬ。
げに今まで燃えつかざりし拾木《ひろいぎ》の、たちまち風に誘われて火を起こし、濃き煙うずまき上《のぼ》り、紅《くれない》の炎の舌見えつ隠れつす。竹の節の裂《わ》るる音聞こえ火の子舞い立ちぬ。火はまさしく燃えつきたり。されど童らはもはやこの火に還《かえ》ることをせず、ただ喜ばしげに手を拍ち、高く歓声を放ちて、いっせいに砂山の麓《ふもと》なる家路のほうへ馳《は》せ下りけり。
今は海暮れ浜も暮れぬ。冬の淋しき夜となりぬ。この淋しき逗子の浜に、主《あるじ》なき火はさびしく燃えつ。
たちまち見る、水ぎわをたどりて、火の方《かた》へと近づきくる黒き影あり。こは年老いたる旅人なり。彼は今しも御最後川を渡りて浜に出《い》で、浜づたいに小坪街道へと志《こころざ》しぬるなり。火を目がけて小走りに歩むその足音重し。
嗄《しわが》れし声にて、よき火やとかすかに叫びつ、杖なげ捨てていそがしく背の小包を下ろし、両《りょう》の手をまず炎の上にかざしぬ。その手は震い、その膝《ひざ》はわななきたり。げに寒き夜かな、いう歯の根も合わぬがごとし。炎は赤くその顔を照らしぬ。皺《しわ》の深さよ。眼《まなこ》いたく凹《くぼ》み、その光は濁りて鈍《にぶ》し。
頭髪も髯《ひげ》も胡麻白《ごまじろ》にて塵《ちり》にまみれ、鼻の先のみ赤く、頬《ほお》は土色せり。哀れいずくの誰ぞや、指《さ》してゆくさきはいずくぞ、行衛《ゆくえ》定めぬ旅なるかも。
げに寒き夜かな。独《ひと》りごちし時、総身《そうしん》を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩《す》りたり。いたく古びてところどころ古綿《ふるわた》の現われし衣の、火に近き裾《すそ》のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑《うるお》いて、なお乾《ほ》すことだに得ざりしなるべし。
あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆《きゃはん》も足袋《たび》も、紺の色あせ、のみならず血色《ちいろ》なき小指現われぬ。一声《いっせい》高く竹の裂《わ》るる音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁《おきな》は足を引かざりき。
げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替《か》えつ。十とせの昔、楽しき炉《いろり》見捨てぬるよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火に遇《あ》わざりき。いいつつ火の奥を見つむる目《ま》なざしは遠きものを眺むるごとし。火の奥には過ぎし昔の炉《いろり》の火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現わるるものは児にや孫にや。
昔の火は楽しく、今の火は悲し、あらず、あらず、昔は昔、今は今、心地よきこの火や。いう声は震いぬ。荒ら荒らしく杖を投げやりつ。火を背になし、沖の方《かた》を前にして立ち体《たい》をそらせ、両
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