、丁寧に一言《ひとこと》「行きませんか」と言ったのです。
 私はいやと言うことができないどころでなく、うれしいような気がして、すぐ同意しました。
 雪がちらつく晩でした。
 木村の教会は麹町区《こうじまちく》ですから、一里の道のりは確かにあります。二人は木村の、色のさめた赤毛布《あかけっと》を頭からかぶって、肩と肩を寄り合って出かけました。おりおり立ち止まっては毛布《けっと》から雪を払いながら歩みます、私はその以前にもキリスト教の会堂に入ったことがあるかも知れませんが、この夜の事ほどよく心に残っていることはなく、したがってかの晩初めて会堂に行った気が今でもするのであります。
 道々二人はいろいろな話をしたでしょうがよく覚えていません。ただこれだけ頭に残っています。木村はいつもになくまじめな、人をおしつけるような声で、
「君はベツレへムで生まれた人類が救い主エス、クリストを信じないか。」
 別に変わった文句ではありませんが、『ベツレへム』という言葉に一種の力がこもっていて、私の心にかつてないものを感じさせました。
 会堂に着くと、入口の所へ毛布《けっと》を丸めて投げ出して、木村の後ろについて内に入《はい》ると、まず花やかな煌々《こうこう》としたランプの光が堂にみなぎっているのに気を取られました。これは一里の間、暗い山の手の道をたどって来たからでしょう。次にふわり[#「ふわり」に傍点]とした暖かい空気が冷え切った顔にここちよく触れました。これはさかんにストーブがたいてあるからです。次に婦人席が目につきました。毛は肩にたれて、まっ白な花をさした少女《おとめ》やそのほか、なんとなく気恥ずかしくってよくは見えませんでした、ただ一様に清らかで美しいと感じました。高い天井、白い壁、その上ならず壇の上には時ならぬ草花、薔薇《ばら》などがきれいな花瓶《かびん》にさしてありまして、そのせいですか、どうですか、軽い柔らかな、いいかおりが、おりおり暖かい空気に漂うて顔をなでるのです。うら若い青年、まだ人の心の邪《よこしま》なことや世のさまのけわしい事など少しも知らず、身に翼のはえている気がして、思いのまま美しい事、高いこと、清いこと、そして夢のようなことばかり考えていた私には、どんなにこれらのことが、まず心を動かしたでしょう。
 木村が私を前の席に導こうとしましたが、私は頭《かしら》を振っ
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