予は厚くその注意を謝し、今は我輩も帰るべしと巡査にも一揖《いちゆう》して月と水とに別れたり。この夜の清風明月、予の感情を強く動かして、終《つい》に文学を以て世に立《たた》んという考えを固くさせたり。
 懐しき父母の許より手紙届きたり。それは西風|槭樹《せきじゅ》を揺がすの候にして、予はまずその郵書を手にするより父の手にて記されたる我が姓名の上に涙を落したり。書中には無事を問い、無事を知らせたるほかに袷《あわせ》襦袢《じゅばん》などを便りにつけて送るとの事、そのほか在所の細事を委しく記されたり。予よりは隠すべきにあらねば当時の境界《きょうかい》を申し送り、人世を以て学校とすれば書冊の学校へ入らずも御心配あるなと、例の空想に聊《いささ》か実歴したる着実らしき事を交えて書送りたり。折返して今度は伯父よりの手紙に、学資を失いて活版職工となりしよし驚き気遣うところなり、さらに学資も送るべし、また幸いに我が西京に留学せし頃の旧知今はよき人となりて下谷西町に住《すま》うよし、久しぶりにて便りを得たり、別紙を持参して諸事の指揮をその人にうけよと懇《ねんご》ろに予が空想に走する事を誡められたり。
 予は
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