しくは我が疑われたる投身の人か、我未ださる者を救いたる事なし、面白き事こそ起りたれと折しもかかる叢雲《むらくも》に月の光りのうすれたるを幸い、足音を忍びて近づきて見れば男ならで女なり。ますます思いせまる事ありて覚悟を極《きめ》しならんと身を潜まして窺うに、幾度か欄干へ手をかけて幾度か躊躇し、やがて下駄を脱ぎすつる様子に走り倚りて抱き留めたり。振り放さんと※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くを力をきわめて欄干より引き放し、「まずまず待たれよ死ぬ事はいつでもなる」詞《ことば》せわしくなだむるところへ早足に巡査の来りてともに詞を添え、ともかくもと橋際の警察署へ連れ行く。仔細を問えど女は袖を顔にあてて忍び音に泣くばかりなり。予に一通り仔細を問われしゆえ、得意になりてその様子を語りたり。警官は詞を和らげて種々に諭されしに、女もようやく心を翻《ひるがえ》し涙を収めて予に一礼したるこの時始めて顔を見しが、思いの外に年若く十四五なれば、浮きたる筋の事にはあるまじと憐れさを催しぬ。「死なんと決心せし次第は」と問われて口|籠《ごも》り、「ただ母が違うより親子の間よからず、私のために父母のいさかいの絶えぬを悲しく思いて」とばかりにて跡は言わず。「父母の名を言うことは許して」というに、予も詞も添え、「こおんなの願いの如くこのままに心まかせに親許へ送りかえされたし」と願い、娘にも「心得違いをなさるなよ」と一言を残して警察署を立ち出でしが、またいろいろの考え胸に浮かび何となく楽しからざれば活版所へはかえらず、再び橋の上をぶらつきたり。今度は巡行の巡査も疑わず、かえって今の功を賞してか目礼して過るようなれば心安く、行人まったく絶えて橋上に我あり天空に月あるのみ。満たる潮に、川幅常より広く涼しきといわんより冷しというほどなり。さながら人間の皮肉を脱し羽化《うか》して広寒宮裏《こうかんきゅうり》に遊ぶ如く、蓬莱《ほうらい》三山ほかに尋ぬるを用いず、恍然《こうぜん》自失して物と我とを忘れしが、人間かかる清福あるに世をはかなみて自ら身を棄《すて》んとするかの小女こそいたわしけれとまたその事に思い到りて、この清浄の境に身を置きながら種々の妄想を起して再び月の薄雲に掩《おお》われたるも知らざりし。予がかくたたずみて居たるは橋を半ば渡りこして本所に寄りたる方にて、これ川を広く見んがためなりし。折しも河岸の方より走せ来る人力車々上の人がヤヤという声とともに、車夫も心得てや、梶《かじ》棒を放すが如く下に置きて予が方へ駆け寄りしが、橋に勾配あるゆえ車は跡へガタガタと下るに車夫は驚き、また跡にもどりて梶棒を押えんとするを車上の人は手にて押し止め、飛び下りる如くに車を下りたれば、車夫は予が後へ来りてシッカと抱き止めたり。驚きながらもさてはまた投身の者と間違えられしならんと思えば「御深切|忝《かたじ》けなし。されど我輩は自死など企つる者にあらず、放したまえ」というに、「慈悲でも情でも放す事は出来ない、マアサこちらへ」と力にまかせて引かるるに、「迷惑かぎり身投げではない」と※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]けば、「さようでもあろうがそれが心得違いだ」と争うところへ、車上の人も来られ、「万吉よく止めた、まだ若いにそう世を見かぎるものではない」と、問答の中へ巡査が来られしゆえ我より「しかじかにて間違えられし」と告げれば、この巡査顔を知りたれば打笑いて、「貴公あまりこの橋の上に永くぶらつかれるからだ。この人は投身を企つる者ではござらぬ」巡査の証言にかの人も車夫も手持不沙汰なれば予は厚くその注意を謝し、今は我輩も帰るべしと巡査にも一揖《いちゆう》して月と水とに別れたり。この夜の清風明月、予の感情を強く動かして、終《つい》に文学を以て世に立《たた》んという考えを固くさせたり。
 懐しき父母の許より手紙届きたり。それは西風|槭樹《せきじゅ》を揺がすの候にして、予はまずその郵書を手にするより父の手にて記されたる我が姓名の上に涙を落したり。書中には無事を問い、無事を知らせたるほかに袷《あわせ》襦袢《じゅばん》などを便りにつけて送るとの事、そのほか在所の細事を委しく記されたり。予よりは隠すべきにあらねば当時の境界《きょうかい》を申し送り、人世を以て学校とすれば書冊の学校へ入らずも御心配あるなと、例の空想に聊《いささ》か実歴したる着実らしき事を交えて書送りたり。折返して今度は伯父よりの手紙に、学資を失いて活版職工となりしよし驚き気遣うところなり、さらに学資も送るべし、また幸いに我が西京に留学せし頃の旧知今はよき人となりて下谷西町に住《すま》うよし、久しぶりにて便りを得たり、別紙を持参して諸事の指揮をその人にうけよと懇《ねんご》ろに予が空想に走する事を誡められたり。
 予は
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