けらるゝは、当時《そのかみ》の源廷尉《げんていゐ》宛然《えんぜん》なり、予《よ》も肉《にく》動《うご》きて横川氏《よこかわし》と共《とも》に千島《ちしま》に行《ゆ》かばやとまで狂《くるひ》たり、舟《ふね》は大尉《たいゐ》萬歳《ばんざい》の歓呼《くわんこ》のうちに錨《いかり》を上《あ》げて、此帝都《このていと》を去りて絶海無人《ぜつかいむじん》の島《たう》をさして去りぬ、此《こ》の壮《さか》んなる様《さま》を目撃したる数萬《すうまん》の人、各々《めい/\》が思ふ事々《こと/″\》につき、いかに興奮感起《こうふんかんき》したる、ことに少壮《せうさう》の人の頭脳《づなう》には、此日《このひ》此地《このち》此有様《このありさま》永《なが》く描写《べうしや》し止《とゞ》まりて、後年《こうねん》いかなる大業《たいげふ》を作《な》す種子《たね》とやならん、予《よ》は集《つど》へる人を見て一種《いつしゆ》頼《たの》もしき心地《こゝち》も発《おこ》りたり、此一行《このいつかう》が此後《こののち》の消息《せうそく》、社員《しやゐん》横川氏《よこかはし》が通信に委《くは》しければ、読みて大尉《たいゐ》の壮行《さうかう》と予《われ》も共《とも》にするの感あり、其《そ》は此日《このひ》より後《のち》の事《こと》にして、予《よ》は此日《このひ》只一人《たゞひとり》嬉《うれ》しくて、ボンヤリとなり、社員にも辞《じ》せず、ブラ/\と面白《おもしろ》き空想を伴《つれ》にして堤《どて》を北頭《きたがしら》に膝栗毛《ひざくりげ》を歩《あゆ》ませながら、見送《みおく》り果《はて》てドヤ/\と帰る人々が大尉《たいゐ》の年《とし》は幾《いく》つならんの、何処《いづこ》の出生《しゆつしやう》ならんの、或《あるひ》は短艇《ボート》の事《こと》、千島《ちしま》の事抔《ことなど》噂《うはさ》しあへるを耳にしては、夫《それ》は斯《か》く彼《あれ》は此《かう》と話して聞《きか》せたく鼻はうごめきぬ、予《よ》は洋杖《ステツキ》にて足を突《つ》かれし其人《そのひと》にまで、此方《こなた》より笑《ゑみ》を作りて会釈《ゑしやく》したり、予《よ》は何処《いづく》とさして歩《あゆ》みたるにあらず、足《あし》のとまる処《ところ》にて不図《ふと》心付《こゝろづ》けば其処《そこ》、依田学海先生《よだがくかいせんせい》が別荘《べつさう》なり、此《こゝ》にてまた別《べつ》の妄想《まうさう》湧《わ》きおこりぬ。


     第二囘


おもへば四年《よとせ》の昔なりけり、南翠氏《なんすゐし》と共《とも》に学海先生《がくかいせんせい》の此《こ》の別荘《べつさう》をおとづれ、朝より夕《ゆふ》まで何《なに》くれと語《かた》らひたる事《こと》ありけり、其時《そのとき》先生《せんせい》左《さ》の詩《し》を示《しめ》さる。
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庚寅一月二十二日、喜篁村南翠二君見過墨水弊荘、篁村君文思敏澹、世称為西鶴再生、而余素愛曲亭才学、故前聯及之、
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巨細相兼不並侵、審論始識適幽襟、鶴翁才気元天性、琴叟文章見苦心、戯※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]諷人豈云浅、悲歌寓意一何深、梅花香底伝佳話、只少黄昏春月臨
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まことに此時《このとき》、日《ひ》も麗《うら》らかに風《かぜ》和《やは》らかく梅《うめ》の花、軒《のき》に匂《かんば》しく鶯《うぐひす》の声いと楽しげなるに、室《しつ》を隔《へだ》てゝ掻《か》きならす爪音《つまおと》、いにしへの物語ぶみ、そのまゝの趣《おもむき》ありて身も心も清《きよ》く覚《おぼ》えたり、此《こ》の帰るさ、またもとの俗骨《ぞくこつ》にかへり、我《われ》も詩を作る事《こと》を知りたるならば、拙《へた》ながらも和韻《わゐん》と出かけて、先生を驚《おどろ》かしたらんものをと負《まけ》じ魂《だましひ》、人|羨《うらや》み、出来《でき》ぬ事《こと》をコヂつけたがる持前《もちまへ》の道楽《だうらく》発《おこ》りて、其夜《そのよ》は詩集《ししふ》など出《いだ》して読みしは、我《われ》ながら止所《とめどころ》のなき移気《うつりぎ》や、夫《それ》も其夜《そのよ》の夢だけにて、翌朝《よくあさ》はまた他事《ほかのこと》に心移《こゝろうつ》りて、忘《わす》れて年月《としつき》を経《へ》たりしが、梅《うめ》の花の咲《さ》くを見ては毎年《まいとし》、此日《このひ》の会《くわい》の雅《みやび》なりしを思《おも》ひ出《だ》して、詩を作らう、詩を作らう、和韻《わゐん》に人を驚《おどろ》かしたいものと悶《もだ》へしが、一心《いつしん》凝《こ》つては不思議《ふしぎ》の感応《かんおう》もあるものにて、近日《きんじつ》突然《とつぜん》として左《さ》の一詩《し》を得《え
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