御託宣《ごたくせん》、これが諸方《しよはう》へ引札《ひきふだ》となり、聞人達《もんじんたち》の引付《ひきつけ》で、諸侯方《しよこうがた》まで御出《おいで》になり、わづかのうちに新梅屋敷《しんうめやしき》の名、江都中《えどぢう》に知られ、夫《それ》のみならず先生々々《せんせい/\》の立《たて》こがしに、七草考《なゝくさかう》の都鳥考《みやこどりかう》のと人に作らせて、我名《わがな》にて出版せしゆゑ、知らぬものは真の文雅《ぶんが》の士《し》とおもひ、訪《とひ》よるさへも多ければ、忽《たちま》ち諸国《しよこく》にも園《その》の名を馨《かほ》らせ、枝葉《えだは》の栄《さか》え、それのみか、根堅《ねがた》き名園《めいゑん》を斯《か》く遺《のこ》して年々《ねん/\》の繁昌《はんじやう》、なみ/\の智恵《ちゑ》、生才学《なまさいがく》にて此《こ》の長栄不朽《ちやうえいふきう》の計画《けいくわく》のなるべきや、気を取りにくき聞人《もんじん》の気をよく取りて皆《みな》我用《わがよう》となしたるは、多く得《え》がたき才物《さいぶつ》なり、もし戦国《せんごく》の時《とき》にあらば、うまく英雄の心を攬《と》りて、いかなる奇功《きこう》を立《たて》たるやはかりがたし、殊《こと》に此地《このち》に一|名園《めいゑん》を加《くは》へたるは私利《しり》のみなりといふべからず、偖《さて》此《こ》の菊塢《きくう》老年《らうねん》には学問も少しは心がけしと見え、狂歌《きやうか》俳句《はいく》も左《さ》のみ手づゝにはあらず、我《わ》が蔵《ざう》する菊塢《きくう》の手紙には、梅《うめ》一枝《いつし》画《ゑが》きて其上《そのうへ》に園《その》の春をお分《わか》ち申《まを》すといふ意味の句あり、また曲亭馬琴《きよくていばきん》が明《めい》を失《しつ》してのち、欝憂《うさ》を忘るゝために己《おの》れと記臆《きをく》せし雑俳《ざつぱい》を書《かき》つらねて、友におくりし中《うち》に、此《この》菊塢《きくう》の狂歌《きやうか》二|首《しゆ》発句《ほつく》一|句《く》あり、(手紙と其書《そのしよ》も移転《ひつこし》まぎれに捜《さが》しても知れぬは残念《ざんねん》)兎《と》にも角《かく》にも一個《いつこ》の豪傑《がうけつ》「山師《やまし》来《き》て何《なに》やら植《う》ゑし隅田川《すみだがは》」と白猿《はくゑん》が、芭蕉
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