老子は印度の影響を受けたものと信じて居る。甚しきは老子その人も印度より支那に移住して來たものとさへ信じて居る。有名なフランスの支那學者 Pauthier などは、六七十年から以前に已にこの説を唱へて居り、支那と西方との古代の文化の關係を研究の目的として居つた Lacouperie は、尤も熱心に老子の印度人たるべきを主張して居る。現代の支那學者では、ドイツの Hirth 氏なども餘程この説に傾いて居る。兎も角も老子は印度臭い、彼の學説には幾分佛教の教理とも相通ずべき點の存するといふことが、『老子化胡經』の作者の附け目である。
(第二) 老子はもと周に仕へたが、世の衰ふるを見て官を捨て、西方に出掛けたといふ傳説がある。『史記』の老莊申韓傳を見ると、老子はその晩年に關を出でて莫[#レ]知[#二]其所[#一][#レ]終と載せてある。單に關とあつては不明なれど、『史記正義』には散關と註す。散關は長安の古都より四百〔支那〕里餘西に當つて、今の陝西省鳳翔府寶※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]縣に在る。或は函谷關といふ説もある。函谷關は今の河南省河南府靈寶縣に在つて、洛陽の古都より西四百〔支
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