放つた所が、道士等の祕術を盡したにも拘らず、道經は悉く焚け盡し、術に破れたる道士等は悉く出家して佛門に歸したと記載してある。これが道佛二教衝突の發端といふことで、あらゆる佛教の歴史に引用されて居る。又河南の白馬寺へ往くと、白馬寺の六景と稱するものがあつて、その第二を焚經臺といひ、即ち漢代に道經を焚いた舊蹟と傳へてゐる。吾が輩の河南旅行の際は、前程を急ぎしこととて、所謂焚經臺を親覩せなんだが、勿論後世の附會で信憑するに足らぬ。『漢法本内傳』といふ書は、南北時代から存在はするが、對道教的のもので、餘り信用することが出來ぬ。當時の事情からいうても、新來※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々の佛教に弘布の餘裕なく、從つて五嶽の道士と衝突する筈もない。第一その當時已に所謂道士なるものが存在したかが疑問である。要するに東漢の永平年間に於ける道佛二教の衝突は、到底事實として認めることが出來ぬ。
東漢の末から三國時代にかけて、一方では佛教が漸く民間に流通するし、又一方では道教が次第に組織されるに從ひ、始めて道佛の衝突が起り、兩晉・南北朝・隋・唐時代は申すに及ばず、宋・元時代までかけて、絶えずこ
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