か無頼漢とか、乃至癡漢・惡漢・沒曉漢とか、すべて人を痛罵する時に、漢の字を使用することは、五胡時代以後の慣習に外ならぬ。
之に反して南支那はこの三百年の間、終始漢族の天子を戴いた。晉室の南渡と共に、中國の貴顯・大官・名族・甲姓――學問に於て、知識に於て、當時尤も卓越した漢族――の多數が、塞外諸族の支配を見限つて、南支那に移轉し永住したことが、漢族特有の文化を傳播して、南方開發に多大の貢獻をなすに至つたこと勿論である、かくてこの期間に於ける人物は、却つて多く南方に輩出した樣に思ふ。書道の神と呼ばるる王羲之、畫家の聖と推さるる顧※[#「りつしんべん+豈」、第3水準1−84−59]之は、皆南支那に人と爲つて居る。兔に角南方の文化が優に北方のそれに對抗するを得、また南方の人物が優に北方のそれに比敵することが出來、時に或は之を凌駕せんとする勢さへあるといふことは、晉室の南渡以來の新現象で、確に破天荒の事件と申さねばならぬ。之に關するやや詳細の記事は、大正三年十月の『藝文』に掲げた、「晉室の南渡と南方の開發」(本卷[#「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」]一三七頁參照)。といふ拙稿中に述べてある
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