支那全國の食料問題は、殆ど南支那の豐凶に據つて決する有樣といはねばならぬ。

         四

 南支那の開發は、秦漢時代からその緒につき、晉室の南渡によつて、急にその度を進め、唐・宋・元・明と歩武を續けて、遂に南方は文化・戸口・物力すべての點に於て、北方を凌駕することになつた。支那の學者は、この現象を解して、天運の循環、地氣の盛衰に歸して居るが、吾が輩の所見では、南支那の開發に預つて力ある第一の原因は、北支那には絶えず野蠻な塞外種族の侵入があり、之と共に優秀なる北方の住民が、次第に南支那に移轉したことに存すると思ふ。
 塞外種族は何時も北支那へ侵入し、また先づ北支那を占領する。北支那人は南支那人に比して、遙に長い年月の間、異族の支配を受けた。その自然の結果として、彼等との間に雜婚が行はれて居る。此等の理由により、北支那人は餘り異族を排斥せぬ。燕趙地方――大體に於て今の直隷省に該當する――に、悲歌慷慨の士の多かつたのは、秦漢時代若くばその直後の時代のこと、後世の事實はこの傳説を裏切つてゐる。金の世宗は曾て燕人に就いて、
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燕人自[#レ]古忠直者鮮。遼(契丹)
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